大学を中退、歌人人生のスタート

杉田協士監督の映画『ひとつの歌』('11年)に出演したときの枡野さん。絶望的な役に感情移入したという
杉田協士監督の映画『ひとつの歌』('11年)に出演したときの枡野さん。絶望的な役に感情移入したという
【写真】警察官に職務質問されている様子の枡野浩一さん

 高校を卒業し、専修大学経営学部に合格。文学研究会に入り、学園祭で講演会を企画するなど、充実しているように見えた大学生活は半年で幕を閉じた。

「サークル活動はめちゃくちゃ熱心にやっていました。文化祭の講演会を企画したんですが、終わった後に学校に行かなくなりました。簿記とかについていけなくなったんです」

 その後、再受験のために通った予備校では小論文が評価され、教材に使われたり、他の校舎からファンレターが届くこともあったというから非凡な文才が当時からあったのだろう。そんな中で短歌を作るようになった。

「予備校の漢文の授業中、急にたくさんの短歌が頭に浮かんだんです。それがもう最初の代表作です。ほんとに(頭の中に)出てきたみたいな感じでした。人生真っ暗だと思っていた中で、100首ぐらいの短歌が一気に降りてきた。同時期、『現代詩手帖』に送った詩も全部掲載されて」

 このころから類いまれなるコピーの才能を光らせるようになった。

「作詞家をやろうと、事務所に所属したこともあります。カラオケには、僕が作詞した曲が1曲だけ入っています。米屋純さんという方の『とりかえしのつかない二人』という曲。印税が1年あたり5円くらい入ります。僕しか歌ってないと思いますよ(笑)」

 予備校に通った後には、リクルート社に入り、雑務のアルバイトを始めた。

「リクルート事件の直後だったせいで、質が悪くても入れちゃったんだと思いますね。面談の日に履歴書を忘れていったんですよ。そんな僕をよく採用しましたよね」

 採用後はスーツを着て、朝から晩まで正社員のように働いた。

「何もできない僕にみんなびっくりしたと思います。例えば、『カレンダー作って』と言われても、普通は30分で終わるところを1日かかっちゃう。周囲もアキレて怒ることもできなかったんじゃないかな」

 リクルート社では当時、勉強会や適性テストが1年ごとにあったが、作文の点だけはとても高かった。

「将来、コピーライターになりたいから、会社にお願いして、夜には養成講座に通いました。1年後にリクルートを辞めたいと上司に告げるとクリエイティブ推進課に異動になったんです。この部署は楽しくて外部のコピーライターを招いて勉強会を開いたり。僕も課題に参加させてもらうと、成績がよかったんです。僕ばかり選ばれちゃう」

 2年勤め、上司が独立したタイミングでリクルートを退社。ライターなどのバイトで食いつないでいたある日、コピーライター養成講座の先生から電話がきた。

「『うちに来ないか?』と言ってくれたんです。当時の僕の生活はギリギリ。実家を出て文京区のぼろアパートに住み、借金もつくっちゃって。結局、借金は返せないくらいになったので、任意整理したんです。これが後に問題となるんです」