『かんたん短歌』で異端児として歌人デビュー

仕事場でもあり、時々はイベント会場にもなる『枡野書店倉庫』の前で。「僕が雑誌に載るといつも首をかしげている写真が採用されるんですよ」
仕事場でもあり、時々はイベント会場にもなる『枡野書店倉庫』の前で。「僕が雑誌に載るといつも首をかしげている写真が採用されるんですよ」
【写真】警察官に職務質問されている様子の枡野浩一さん

 '95年6月、第41回角川短歌賞において応募作品『フリーライターをやめる50の方法』が最終候補になったものの、落選した。このころ、ルポライターで、漫画原作者の藤井良樹さん(59)と知り合う。

「枡野は当時、サブカルっぽかったんですよ。イメージでいうと、シンガー・ソングライターの小沢健二とか、スピッツのボーカル草野マサムネのような、不良っぽくない文化系草食男子でした。歌集の2冊同時出版が決まったとき、ある学校の文化祭に行った帰りの電車で、“どうしたら歌集がベストセラーになるかなぁ”とアイデアを出し合ったのを覚えています」(藤井さん)

 短歌界では異端児として話題になった。追悼集『ガムテープで風邪が治る:水戸浩一遺書詩集』(新風舎)を刊行。これは20歳のときの枡野さんのペンネーム。ガムテープで口がふさがれた状態で水戸浩一が発見されたという当時の悪ノリだった。愛蔵版では、枡野浩一を前面に出しネタバラシをしたのだが。

「僕の正式なデビュー作は『てのりくじら』(実業之日本社)ですが、『ガムテープ〜』が一応、最初の書籍作品です。自費出版しようと思ったんですが、出版社がお金を出してくれて。水戸浩一の追悼本のフリをした本です。復刊して、愛蔵版にするとき、枡野だとバラしちゃったんですけど、真に受けた作家もいたので、案外そのままでもバレなかったかも」

 その後も、短歌を作り続けた。'97年には『てのりくじら』『ドレミふぁんくしょんドロップ』(実業之日本社)を2冊同時発売し、歌人デビューした。

「その前からワコールのPR誌『ワコールニュース』に、短歌と短いエッセイを連載させてもらったり、月刊誌『スコラ』では、小さいコラムを書かせてもらっていました。『週刊読書人』でも、短いものを書いていたほか、音楽ライターもしていて仕事は途切れなかったですね」

 歌人デビュー前は『AZ』(エージー)という広告会社で約2年、正社員で働いた。

「三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)の行内ポスターやチラシの文面を書く仕事をしていました。当時は、土日に音楽ライターとしてインタビューもしていたんです。事務所に入り、作詞に挑戦もしました。

 AZ退社後は町山智浩さんが編集者だったころの『宝島30』で漫画紹介コラムを連載させてもらいました。石原慎太郎さんと小林よしのりさんの対談もまとめています。『週刊SPA!』でもユーミン特集やドラマ脚本家特集、日本語ヒップホップ特集を担当しました」

 順調に仕事に突き進んでいるように見えた枡野さん。が、この後ある出会いで歯車が狂っていく──。