あらゆる人間関係が全滅するゴッホ
ゴッホは画家になってからも、もちろんアルバイトなんてしない。28歳のとき、歳上のシングルマザーに恋をして求婚するも「あんた、ヒモでニートじゃん。無理よ、無理」といった具合にコテンパンに拒まれて、またも病む。しかし、諦めきれずにテオの金で交通費を捻出し、相手の実家に押しかけるも「ゴッホ、親の私が言うのもなんだが……脈ないぞ」などと相手の家族からドン引きされ、意気消沈して帰る。
'82年、ゴッホはオランダのハーグにて、画家コミュニティにもまれる。そこで先輩の画家、アントン・モーヴに気に入られ、資金の援助を受けはじめた。
しかし、ゴッホのヒモっぷりを甘く見てはいけない。彼は絵のモデルを務めていた女性と付き合い、彼女の家賃を援助していたのだ。「先輩からの援助金で彼女の家賃を払う」という、もうなんか、悲惨なマトリョーシカみたいな状況だった。この事実を知ったからか、モーヴはゆるやかにゴッホとの縁を切る。
また、ゴッホは当時知り合ったほかの画家ともうまくなじめなかった。
例えば「ゴッホさん、ちょっとだけ、ここを変えてみたら? もっとよくなりそうだよ」と指摘されると「てんめー! 誰にもの言ってんだ!」という具合にガチギレするので「……あいつ怖えよ」と、みんな関わらなくなるのだ。
そのうえ、テオからの仕送りが遅れると「絵のモデルを雇えねえだろうが!」などと、金の無心をしている。ゴッホ、このとき29歳。とにかく周りが見えていなかった。
ゴッホは三十路に突入してからも、周りの画家たちとケンカし、求婚しては振られ、パリで同居を始めたテオからの金で生活をしていた。
しかも、絵がまったく売れないもんだから、もうゴッホのイライラは常にMAXだ。それを弟にぶつける毎日。テオは心労のあまり、妹に「もう限界。早く出ていかねえかな、あの残念な兄」というような手紙を出している。
ゴッホは多少「売れるための絵」を描いた時期もあったが、マイワールドをほぼ変えないまま、35歳にして南フランスのアルルに移住。先輩画家、ポール・ゴーギャンに同居を打診し、有名な共同生活が始まるわけだ。
前提として、ゴッホはゴーギャンを尊敬していた。だからゴーギャンが2人で住む家に到着する前に、テオにお金を催促して死ぬほど作品を描きまくった。合流の前にどうしても自信作を仕上げたかったのだろう。あの『ひまわり』シリーズの一部も、この時期に描いた作品だ。
そして、ゴーギャンは予定より遅れて到着する。同居生活が始まると、ゴッホとゴーギャンはともに散歩して絵を描いたり、ぶどう畑を見に行ったりと楽しく過ごしていたが、だんだんとケンカが増えていく。
というのも、2人は芸術観がまったく合わなかったのだ。ゴッホは色彩感覚こそ鋭いが、基本的に見たものを写実的に描く画家だった。一方、ゴーギャンは感覚を重要視する画家だ。目に映った光景を、自分の内面のフィルターを通してキャンバスに落とし込む作風である。
ゴッホはもちろん、尊敬するゴーギャンの技法を素直に学ぼうとしていた。でも、言うときは言う。プロの画家、しかも先輩に向かって「いや、なんだその色彩は。のっぺりしすぎだろ」 ばりのツッコミを入れだした。
こ……これは、ゴーギャンとしては恥ずかしい。そもそもゴーギャンは、好きな表現のためにあえて写実性を崩していて、それが彼のよさでもある。そこを指摘するのは、さすがにご法度だろう。米津玄師に「ミステリアスなムードをやめろ。まず髪を切れ」などと言ってしまうようなものだ。
しかし、絵に関しては作風の違いでさえも看過できないほどに、ゴッホは自分の作品に熱いプライドを持っていた。「画家としての信念をどうしても曲げたくない」という思いの強さがよく分かるエピソードだ。