かつて世間の注目を集めた有名人に「あのとき、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー連載。当事者だから見えた景色、聞こえた声、そして当時は言えなかった本音とは? 第26回は、漫才コンビB&Bで大ブレイクを果たすも、仕事が激減してしまった島田洋七(71)。著書のヒット再ブレイクを果たしたあと、吉本興業を退社した真相とは―。
漫才が簡単そうに見えて……
「しゃべるだけでお金を稼げるなんてええなって」
1980年代、お笑いコンビB&Bで漫才ブームを牽引し、一世を風靡した島田洋七。お笑い界の門を叩いたのは、たまたま見たなんば花月の寄席がきっかけだった。
「現在の奥さんと地元・広島から半ば駆け落ち状態で、大阪に行ったんです。なんば花月で、横山やすし・西川きよし(以下、やすきよ)さんたちの漫才が簡単そうに見えて(笑)。入ってから、簡単そうに話しているように見えただけだとわかったけどね」
'71年に島田洋之介・今喜多代に弟子入りし、翌年、初代B&Bを結成しデビュー。'74年に『第4回 NHK上方漫才コンテスト』で優秀話術賞を受賞するなど、デビューからそれほど時間はかからずに頭角を現す。
「関西でレギュラー番組が3~4本持てるようになったけど、地元である広島や佐賀では放送されないから家族に自分の活躍を見てもらうことができない。先輩に相談したら、“東京の番組なら全国で放送される”と言われ、上京を決意。吉本には“東京で大阪の漫才を広めたい”と申告したので、“頑張ってこいよ!”って快く送り出してくれたね(笑)」
上京して間もなく、フジテレビで放送されていた『花王名人劇場』のプロデューサー・澤田隆治さんと出会ったことで、人生が一変する。
「最初のころはドラマを放送している枠だったんですよ。澤田さんとお会いしたときに“1度漫才やってみましょう!”と言われ、'80年に『激突!漫才新幹線』という企画でやすきよさんたちと出してもらったんです。そしたら翌日にスポンサーだった花王さんからCMオファーが届いたり、漫才ブームが起きて一気に大忙しになった」
洋七の地元・広島の名物を叫ぶ「もみじまんじゅうー!」のギャグが大ウケし、ピーク時は週に19本のレギュラー番組に出演。最高月収は8000万円を超えるなど、一気に国民的スターに。
「レギュラー番組は全部司会だったし、営業の仕事もあったから、寝るのは移動時間のみという日も。平日は帯番組もやっていたから、自宅に帰れるのは週末だけ。普段はニューオータニから収録に通っていたからね」
新ネタを考える暇もない多忙な日々を送っていたが、'82年に司会を務めていた『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ系)が終了したのを機に、仕事が減少してしまう。
「同時期に活躍していた(ビート)たけしや(明石家)さんまなんかは、うまくバラエティー番組にシフトしたけど、俺はできなかった。でも当時は、仕事が減ってプレッシャーから解放される……という安堵感のほうが大きかったね。燃え尽き症候群じゃないけど、それで’83年にはB&Bも解散することに」