うまくいくのは見たくない
無名の若者たちは『電波少年』の企画を通じ、テレビを知っていった。ドロンズはヒッチハイク旅の中でバラエティーの何たるかを理解していく。
「旅の資金を稼ぐため、路上でコントや大道芸をやるようになったんですが、1回で1万5千円くらいが集まるんです。ホテルは2千円くらいで泊まれるので、結構な稼ぎになる。でも、稼ぎすぎて同行ディレクターからは『やめてくれ』とストップが入りました(笑)。
『ゴールまでずっと、お前らがコントばかりやって稼いでいるのを見て誰が楽しいの? 』と言われて、こっちは生きるために必死だから『そんなの知らないですよ』と言い返したんだけど、そこで初めて『テレビってそうなんだな』と理解し、それからはその国だから経験できる仕事をするようになりました」(石本)
個性的なスタッフの元で成長
初期に司会を務めた松村も番組を通じて成長したタレントのひとりだ。彼はこの番組のスタッフを“精鋭”と呼ぶ。
「ほかのディレクターでは〆谷さんがやっていたような仕事なんて絶対にできません。ほかの番組にあんな人はいないです。僕はスタッフにずっと怒られていましたけど、それ以上にスタッフがいろんなところで怒られていたと思うんです。番組がすごいことになったのは、スタッフに個性的な人が集まっていたから」
そもそも、『電波少年』はウッチャンナンチャンが映画を撮影するため、電波の前番組『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』を休止する間の穴埋めとして7月に始まったという。
「そつのないスタッフは4月の時点で、すでにほかの番組に関わっている。7月にやってくれそうなスタッフは『あの人は優秀かもしれないけど問題もあるよ』と陰で言われる人たちばかりなんです(笑)。
だから、穴埋めに癖のある人たちが集まり、その人たちをプロデューサーの土屋(敏男)さんがまとめたのがよかったんじゃないですかね。
もし『電波少年』がなかったら、僕は芸人としてものまねにもっと真剣に取り組んでいたと思います。それで2~3年たってもダメで、山口に帰っていたかもしれない。『電波少年』のおかげでタレント生命は延びた気がします。
芸歴33年、上島竜兵さんみたいに『33年、代表作なし!』というのもいいかもしれないけど、幸い『そうだ、俺には電波少年があったんだ』と思うことができる。そういう意味では、『電波少年』っていうのはありがたい番組だったなあと思います」(松村)