小学2年生から中学1年生まで所属していた野球チーム・水沢リトルで指導していた浅利昭治さんも懐かしむ。
「翔平は同年代の子たちより身長が高かったけど、細くてね。野球を始めた当初は、本当になんにもできなかったんです」
だが、そこからがとんでもなかった。
「チームに入って3か月して、バッティングを“右打ち”から“左打ち”に変えたんです。普通、どんなに運動のできる子でも、打ち方を逆にすると最初はバットにボールが当たらない。でも翔平はちゃんと当たって飛ぶんです。1年後には、グラウンドのフェンスを越える特大ホームランまで打った。30年近くリトルリーグに関わってきましたが、後にも先にも小学3年生でオーバーフェンスは翔平だけですね」(浅利さん、以下同)
ピッチャーとしても唯一無二の存在だったという。大谷が中学1年生で出場した、リトルリーグ東北大会の決勝戦は、まさに“ショータイム”。
「17奪三振をやってのけたんです。リトルリーグの試合は6回までしかないですから、アウトは18個しかない。そのうち17個が三振だったんです。試合中、相手チームは静まり返ってしまって異様な雰囲気でした」
今も正月にLINEで挨拶をくれる
浅利さんの元には今も大谷本人から連絡が届く。
「毎年正月に“あけましておめでとうございます。今年も頑張ります”ってLINEが来るんです。短い言葉だけれど、それが本当にうれしくて。総理大臣からLINEをもらったとしても、それよりもうれしいです(笑)。本当に翔平は礼儀正しくて、翔平が高校を卒業して日本ハムファイターズに入団したときに“僕の野球の原点は水沢リトルです”って言ってくれたって人づてに聞いて。女房と大泣きしたんです」
大谷の試合はすべて欠かさずリアルタイム観戦。
「でもね……楽しみだしうれしいんですが、翔平がどんどん遠い存在になっていってしまうことが寂しくもあって。だから、こうやって話していても……泣けてきてしまって……。うれしいんですけど寂しい気がして」
大谷の家族も、もちろん彼の活躍を見守っていた。祖母もNHKのメジャー中継を楽しみにしていた。
「まじめにやってくれればいいんだぁ。でもケガが怖いの。また手術になったら、どうしようかって」
祖母がケガと同じくらい気を揉んでいたのが、お嫁さん問題。記者が水を向けると、
「(お嫁さんを)早く見たいんですよ! アレも困ったもんで、まだまだでねぇ。野球ばっかりで何にも言ってこない。え? ハリウッド女優が翔平を狙ってる!? とんでもないわ! この辺の人と結婚すればいいの。私はそう思っているんだけれど、どうなってんだかねぇ」