『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の裏側
小学4年生から高校まで放送部で「いずれはテレビ局で働きたい」と思っていたんですが、就職できず、名古屋の出版社で働いていたんです。そのとき『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』で放送作家予備校という企画があり、「人生変わるかもしれない!」と思って企画を考えました。番組の感想も添えて毎週送っていたら、ある日突然「来週の火曜、企画会議来られる?」と連絡が! 初めて東京へ行ってみたら「じゃあ来週から毎週来てよ」と言われて会社を辞め、持っていた車を売って上京しました。
企画会議は毎週30人くらいが集まって、僕は毎回10個くらい企画を出していましたが、最初は全然採用されず。「面白くないよ!」と目の前で破られてゴミ箱へ捨てられたり、「予告編を30秒で書き直せ!」と言われたりしました。怒られる恐怖でテレビ局へ入れないときもあったし、ネタが思い浮かばなくて身体が震えたことも……。
メインの作家さんたちは本当にすごい人ばかりで、会議ではアイデアが卓球のラリーのようにポンポン交わされて。僕もなんとか存在感を示そうと「なるほど!」と大きな声を出して相づち打ったり(笑)。ようやく通ったのが「きんさんぎんさんの生命線はどこまで長いのか?」という企画。でもできあがったVTRを見たら、僕の台本よりもはるかに面白いんですよ。高田純次さんがきんさんぎんさんに会いに行って、ひと言も「生命線を見せて」と言わず、手を取って「うわ~すごいツルツルですねぇ~」なんて言いながらカメラに映すんです。
台本どおりじゃなくて、それを超えようとしてくる……東京のテレビや芸人さんってすごい、と思わされましたね(ちなみに生命線は手首までありました)。それで初めて自分の名前がテレビに出て「本当に放送作家になった!」と親や地元の友人から連絡がありました。まさか本当になると思ってなかったらしくて。
『元気が出るテレビ!!』はそれまでの台本をもとにしたお笑い番組とは全く違う、ロケで面白いもの、とんでもないものを見せるびっくり箱のような、新しい時代を作った番組です。でもひとつだけ約束があってとにかく先輩から言われたのは「誰かを傷つける企画はダメ。面白いかどうかではなく、見る人を元気にするものでないといけない」ということ。
これさえ注意すれば企画としては何でもアリ。朝までかかって水風船を千個作って寝ないでロケへ行ったり、海岸でペンキ塗りさせられたり、スタジオで突然前説をやらされたりなどいろいろありました。自分の才能のなさが嫌になって人生でいちばんツラかった時期ですが、企画が採用されるようになると面白くなって、番組が終わるときに出演者とスタッフ全員で集合写真を撮ったのはいい思い出です。僕にとってはさまざまなことを教わった「何でもアリの学校」のような場所でした。