中から出てきたのは黒い石ころが1つ。遺骨ではありませんでした。祖母はその石ころをお墓に入れるのが耐えられなくて、石ころを手に取って抱きしめたり、頬ずりしたり、舐(な)めたりして離さないんです。和尚さんが“もう終わり”とか“もうおしまい”と言ってもきかない。それが終戦の日の出来事でした」

千村さんの子どもの頃
千村さんの子どもの頃
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 千村さんの記憶に残っているのは、かっこいい軍服姿の恒也さんと俊郎さんが縁側で寝転んで足を蹴り合ってふざけているシーン。とても楽しそうに見えた。

「素敵な叔父さんでした。私のために消しゴムを買ってきてくれたこともあり、とってもいい匂いがしたのを覚えています。祖母はまだ少年のようなわが子を戦争で奪われ、どんな気持ちだったでしょう。息子4人のうち3人を戦争で亡くしたんです。恒也さんはビルマ(現ミャンマー)で戦死しました。俊郎さんは終戦の約2か月前、九州の基地で水枕の水を飲んで盲腸になって、“おかあさん、お腹が痛いよう”と言いながら亡くなったそうです」

 恒也さんは出征前、国鉄(現JR)に勤めており、「おっかさんを東京に連れて行く」のが夢だった。俊郎さんはスポーツ万能で、バスケットボール選手としてオリンピックを目指していたという。

「終戦後、祖母は自宅前を通る軍人の格好をした人を片っ端から自宅に招き、お茶をふるまって“息子のことを知らないか”と聞きました。それと、祖母の建てた墓が変わっているんです。お墓ってだいたい同じ方角を向いて建っていますよね。祖母の建てた墓だけ他家の墓と向きが違って、子どもが見られるように自宅を向いているんです

 セツさんは最後まで新潟を離れなかった。島倉千代子の『東京だョおっ母さん』を何回も歌っていたという。歌詩では、平和な世の中になり、子どもに手を引かれて東京見物する幸せな母親の姿がうたわれている。

※2018年取材(初出:週刊女性2018年9月11日号)

◎取材・文/渡辺高嗣(フリージャーナリスト)

〈PROFILE〉法曹界の専門紙『法律新聞』記者を経て、夕刊紙『内外タイムス』報道部で事件、政治、行政、流行などを取材。2010年2月より『週刊女性』で社会分野担当記者として取材・執筆する