生き馬の目を抜く芸能界では、こうした生き方をすると、運が悪ければサバイバルできないかもしれない。しかし筋を通し、こだわりを持って俳優として立つ姿は、監督たちに届いて出演依頼がかかるのだ。それが小林さん流に言えば、「人に寄りかかって」ということなのだろう。
ただ、仕事も人付き合いも器用ではない分、全力で向き合うので、どうしても家族にしわ寄せがいく。
息子の健さんによれば、家には寝に帰るだけであまり会話もなかったし、家族旅行に行くこともなかったという。
「当時の父は、高倉さんとはほぼ毎日会っているし、撮影が終わっても、楽屋でセリフを覚えたりしているんです。台本を家で読むことはなくて、クルマの中で覚えていたと聞いています。若いころはヤクザの役とかが多くて、ヤバいことをクルマの中で口走っているやつがいると、警察に通報されたこともありましたね(笑)」
撮影現場では、監督などと意見が食い違って、怒って家に帰ってしまうことが若いころには何度かあったという。そういう場合、「お父さん、帰っていませんか?」と電話がかかってきた。
でも父親の仕事には尊敬の念を持って接していた。出演番組は、ご飯を食べながらではなく、必ず母親と姿勢を正して見るのが決まりだった。
母親は折に触れて、こう言った。
「パパは犯人の役とかしているけど、うちはこれでご飯を食べているのよ」
作品を通じて、家族がつながっていたのだ。
NGさえうれしい「山田組」の現場
子どもたちを叱ったことがないという小林さんに、明治の厳格な父親の役が回ってくる。'86年、NHKの朝ドラ『はね駒』への出演依頼である。小林さんを一躍、全国区に押し上げる転機となった作品だ。
「できないと、1度は辞退したんです。でも“好きなやり方で演じてください”と言われて、じゃあ受けようかなと」
出演回が放送されるや顔が知られるようになり、サインをねだられたり、握手を求められたりした。驚いたのは腰にしがみつく人がいたこと。誰かと思ったら女優の中村メイコさん。「素晴らしい」と褒めてくれた。
「俺がいいのではなくて、役がよかったんだよね」と本人は冷静に分析するが、人気は加速し、『ハウスカレー工房』のCMでは、幼い安達祐実さんと共演した「具が大きい!」シリーズでユーモラスなお父さんとして登場。'90年代は「理想のパパ」ランキングで上位に食い込むという現象が起きた。
「人気というのは怖いよね。勘違いしちゃうから。スターになりたい自分と、なりきれない自分が綱引きしていた」
翌'87年には、映画『夜汽車』などで日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞。そして2000年には、『鉄道員』で、最優秀助演男優賞を獲得。人気だけでなくバイプレーヤーとしての実力が認められる。
『鉄道員』は、北海道の廃線間近のローカル線の駅長を高倉健さんが、そして定年を控えた同僚を、小林さんが演じた。みずから「初めて(高倉さんと)対等の関係で芝居した作品で、抱擁のシーンは演技を超えていた」と述懐するが、家族も同じ印象で、「役を超えたものを感じた」(小林健さん)という。
人気・実力ともに充実した小林さんをさらなる高みへと押し上げる監督と出会う。『男はつらいよ』『幸福の黄色いハンカチ』などの名作で知られる山田洋次さんである。
山田監督から映画『学校III』('98年)への出演依頼が舞い込んだとき、まさかと思った小林さんは、「小林桂樹さんの間違いではないか、確認してほしい」と事務所にお願いした。
妻は「オリンピックに出場したみたい」と喜んでくれ、本人も「夢みたいだよなあ、すごいことだよなあ」と、長女で女優の小林千晴さん(48)に語っていたという。
のちに小林さんが、なぜ自分を起用したかを山田監督に尋ねた。返ってきた答えは、
「『HOTEL』というテレビドラマを見て、何も言わない姿がいいなと思ってね」
うれしかった。
撮影開始から間もなく、忘れられない出来事があった。
その日は現場に着いてもすぐに出番はなく、山田監督に「喫茶店でお茶でも飲んで待っていてください」と言われた。喫茶店の前が撮影場所。気が進まなかったが、監督のすすめに応じて、目立たない奥の席に座っていた。すると監督の声が聞こえた。
“よーい、スタート!”
「悲痛というのか、しぼり出すような声を聞いていると涙があふれてきてね。最近は、モニターを見ながら、(撮影スタートの合図に)笛を吹いたり手を叩(たた)いたりする監督もいるけど、山田監督は演技をする俳優をしっかりと見て、“よーい、スタート”と言う。
あの切実さをまとった声って何なんだろう。仕事に対する志の高さというのかな。僕などはもうかるから俳優に、というところからスタートしているけれど、監督は芸術作品をつくるという気概でのぞんでいる。それを再認識できたのは大きかったです」
セリフを言ったり、身体で表現すること以前の、人としてどうあるべきかということもおろそかにしてはいけない、そんな厳しさも伝わってきたと小林さんは話す。
いざ芝居を始めると、よく細かなNGが入った。しかし小林さんはうれしそうだったという。
《俺は鈍い役者だからね、言われたほうがいいんだよ。(山田)監督のようにガンガン言ってくれる人はありがたい》
そう話していたと、「山田組」で助監督を務めた鈴木敏夫さんが、著書『助監督は見た!実録「山田組」の人びと』(言視舎)の中で明かしている。
鈴木さんによると、何回撮り直しても、緊張からか修正できない。不器用な俳優なのだが、それをネタにして周囲を笑わせていたという。
《自分の不器用さを笑いに変えてしまう稔侍さんは他人を笑わせることが大好き。周囲はいつも笑いが絶えない》(前掲書)
また同書では、『家族はつらいよ2』での撮影シーンも描かれている。
『長崎物語』という歌を口ずさむ場面があるのだが、小林さんは音程が狂いっぱなしでNGを連発。息子の健さんによると、「家で何度練習しても、教えるほうがおかしくなるぐらい筋金入りの音痴」らしい。山田監督もあきれ果て、ふーっと、深く溜め息をつく芝居に変更。すると素晴らしかった。
助監督の鈴木さんは、《ジーンと胸に染みて瞼が熱くなった》(前掲書)と述懐する素晴らしい演技だった。
それは山田監督も同じで、鈴木さんにこう耳打ちした。
《稔侍さんに、“最高によかった”と伝えておいてよ》
鈴木さんも、監督があんなふうに演技を褒めることはなかなかないという。それを聞いた小林さんは天にも昇る気持ちで、一瞬だが、これで俳優をやめてもいいと思った。