学校には助けてくれる大人はいなかった

 '21年5月25日、東京地裁(伊藤正晴裁判長)で証人尋問が行われた。当日、雪美さんは緊張しながらも、小声で具体的に証言をした。その後、雪美さんは裁判を傍聴してた筆者に、

「私の声、聞こえていましたか?(証言台では)目の前がぼやけていました。裁判長はどんな顔をしていたんだろう。傍聴人の顔を見ることもできませんでした。もし、見てしまうと怖気ついてしまうそうでした」

 と、話した。なぜかというと当時の担任が傍聴に来ていたため、その姿を見たらフラッシュバックが起きそうで怖かったという。裁判長は、担任に外に出るよう促した。

 1)と2)について雪美さんは、「当時担任には、頻繁に下の名前で呼ばれていました。何を言っているんだろうと思いましたが、授業に関係ないので、どうすればいいのかわかりませんでした」

 3)については、「いきなり言われたのです。先生の顔や身体の距離は拳2つぶんでした」

 4)については、「理由はわかりません。なぜ、わざわざシニヨン(束ねた髪)をつかむんだろうと思ったんです」

 と話した。

取材に応じてくれた雪美さん
取材に応じてくれた雪美さん
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 裁判では担任の証人尋問も行われた。原告側から指摘された行為のほとんどを否定するも「こめかみを触れたことはあります。しかし注意する意味であって、ほかの児童にも同じことをしています」と言い、一部は「誤解を与えることをした」と証言。つまり担任は、雪美さんだけに触れたわけではなく、特別な感情を抱いていないと主張した。

 雪美さんは証言台に立ったあと、「先生の話を聞きたくない」として先に裁判所を離れ帰宅していた。直後から気分が悪くなり、数日間は食欲もない状態が続いたという。法廷に立ったときのことを、後日、あらためて聞いてみた。

「ドラマで見るように、裁判はさっさと終わるものだと思っていました。こんなに長引くとは思っていませんでした。先生たちの証言を聞いて、“本当に悪いこをしたと思っているの?” と思いました。裁判をしてよかったのは、助けてくれる大人はいたんだということです。でも、学校には助けてくれる人はいませんでした。いたら、裁判にはなっていません。学校では、最終的に“腫れ物扱い”になって、(転校先へ)去ったんです。過去のことを思い出すのはつらかったです」

 学校との交渉から考えると、実に5年が経過している。この5年間はどのような生活をしてきたのだろうか。

「5年生のゴールデンウィーク後には、学校に行けると思っていたのですが無理でした。中学1年のときが一番つらっかったです。いまは行きたい高校を見つけたけれど、教室にはなかなか行けないので高校に進学できるのか不安です。最近は家からもほとんど出てなく、出たとしても病院に行くくらいです。今でもうつなのかわかりません……」

 と、貴重な学生時代を謳歌することなく、自宅で過ごしているという。身体も心も著しく成長している、思春期という大事なときに負った心の傷はなかなか癒えていない。雪美さんは、同じように教諭の言動に傷ついている子どもたちに対し、

「頼れるのは学校にいる大人ではなく、親だけでした。道徳の授業でよく“誰かがだ助けてくれる”という話がありますが、現実は助けてくれません。証言をお願いした同級生とも音信不通です。でも、助けてくれる人は少ないけれど必ずいます。諦めないで闘ってほしい。心を折らずに自分の主張をしていかないと、助けてくれる大人も探せないよ」

 と、メッセージを発した。東京地裁、8月31日、13時20分。雪美さんの5年という長い戦いは終結するのだろうか。その後を見守りたい。


取材・文/渋井哲也
ジャーナリスト。長野日報を経てフリーに転身。生きづらさ、教育問題、自殺問題などを取材。『学校が子どもを殺すとき』(論創社)など多数。