そんな性格もあり、第1回目の放送ではあることをして萩本から注意を受けたという。

「フツオ役の僕はいわゆる“フリ”の役割だったのですが、大阪で吉本新喜劇を見て育った僕にはボケずにコントを進めるのが物足りなくて。それで収録本番、大将がかぶっていたハゲヅラを取ってツッコんだんです。会場では大ウケだったのに収録後、呼び出されて…。“今日はウケたけど、今後はどうするの?”と大将流の説教をされました

 その後は萩本の指導どおりコントを行っていたものの、説教の意味はしばらく理解できなかったそう。

「当時は“笑いをとったんだからいいじゃん“という気持ちのほうが強かったですね。でも番組を卒業して、別のバラエティーでMCを経験したことで、あのときの大将の言葉が理解できたんです。

 “最初の人がボケてしまったら、次の人はもっとウケなきゃいけなくなる。コントの流れを壊すんじゃない”と言いたかったんだなって」

西山とはバチバチすることも

 番組の人気もあり、山口、西山と3人で『イモ欽トリオ』を結成。デビュー曲『ハイスクールララバイ』は、160万枚を超える大ヒットになった。

デビュー曲はオリコン7週連続1位。'81年度の年間4位に輝くなど、一躍アイドル的な存在に
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「年齢もバラバラな3人だし、何で僕らがこんなに人気があるんだろうと、みんなどこか冷めた目で見ていましたね。レコードデビューしてからはますます忙しくなって、仕事が終わるとホテルにまっすぐ帰る生活で、遊ぶ時間はまったく無くなりました」

 プライベートで会うことはなかったというが、メンバーの仲が悪くならなかったのは、最年長の山口の存在が大きかったようだ。

僕と西山くんは比較的年が近いこともあり、少しバチバチすることもありました。でも9歳上の山口さんがいることで中和されるというか。あと1年半という短い活動期間だったのも、お互いのマイナスな部分が見えずによかったのかも」

 語尾を強調する「なぁ~っ!」の決めゼリフも代名詞になったが、番組卒業後は封印していた。

“なぁ~っ!”って言ってよと、頼まれすぎてイヤになったのもありますね。大学受験をするという理由で番組を卒業したのに、その後黙って大阪でレギュラー番組を始めてしまったことで、マスコミからもバッシングされたし、何より番組や大将にどこか後ろめたさみたいなものがあって……。だからかなり長い期間、イモ欽トリオや『欽ドン』ネタは封印していました」