第2のふるさと福井県の「家族」
初めての日本で降り立ったのは、親友が暮らす福井県福井市。真っ先に向かったのは、駅前交番だったという。
「まずは仕事を探そうと。英会話の講師だったら食べていけるって親友に教わって、交番で英会話学校の場所を聞いたんです。日本語、まったく話せなかったけど、なんとか3軒教えてもらって、3軒目で採用されました」
初任給は20万円。「そんなにもらえるんだ!」と感激したものの、暮らし始めると、生活はぎりぎりだった。
「家賃や生活費だけでなく、僕は奨学金で大学に通っていたので、毎月、学資ローンの返済がありました。だから、やっぱり貧乏だったね」
もとより、節約生活はお手のもの。異国でも、持ち前の明るさと図々しさで食費を浮かせた。
「近所のパン屋さんで、パンの耳を大量にもらったり、福井のお父さん、お母さんみたいな家族もできて、ごはん食べさせてもらった。いつもだよ。ほんと助かったなあ」
中でもパックンがわが家のように通っていたのが、一時帰国することになった親友から紹介された、電気店を営む一家。娘の橘みかさん(50)が当時を振り返る。
「パトは、『来たよー』って、店に顔を出しては、ごはんを食べていきました。はい、家族みたいな顔して(笑)。最初は日本語も『ありがとう』くらいしか話せなかったのに、すごく勉強熱心で、わからない言葉があると、『これ何?』って必ず聞いてノートに書き込んでいくんです。それこそ、居酒屋の“赤提灯”の意味まで。私たち三姉妹は、パトと友達になって英語を覚えようと意気込んでいましたが、ぜんぜんダメでした。パトがあっという間に日本語を話せるようになったからです」
居酒屋や銭湯でも、「いつも隣のオッサンに話しかけた」とパックン。この人なつっこさで、言葉の壁を突破していったのだろう。
来日から2年後には、日本語能力検定試験1級に合格。大学の授業を日本語で受けられるレベルと認定された。
英会話講師を続けながら、ラジオ局でDJをしたり、劇団にも所属。大勢の仲間や友達にも恵まれた。
みかさんが続ける。
「パトが地元で愛されたのは、人柄だと思います。気さくで明るいだけでなく、気持ちがある人なんです。私の曽祖母が亡くなったときも、お金ないのに、わざわざお香典を持って来てくれて。今も親戚のように親しく付き合っていますが、パトは有名になっても何も変わりません。変わったことがあるとすれば、外食のときに『オレが出すから、誰も払わないで!』って言い張ることかな(笑)。ごはんを食べさせてもらった恩返しのつもりなんですね。日本人以上に義理と人情を感じます」
第2のふるさとと断言できるほど、福井の水になじんだ。
アメリカに帰る気持ちも薄れていた。
ところが来日から2年半後、パックンが決断したのは福井を離れることだった。
「もともと役者を目指していたので、東京で自分の可能性を試そうと思いました。奨学金の返済が終わったことも安心材料でした。だから自分と約束しました。東京では英会話の講師はしないって。それだと食べていけちゃうから。どんなに貧乏でも、芸能の仕事だけで生活するぞってね」
決意も新たに東京に向かったのは、1996年のこと。パックン、26歳のときだ。