コンビを組んだ直後に大ゲンカ!
役者志望のパックンが、お笑いをやることになったのは、上京して1年が過ぎたころ。
「モデルやエキストラの仕事はいくらでもあったけど、僕がやりたい役者の仕事─、主役の友達役とか恋人役は、まったくなかった。1年たって気づきました。僕みたいな外国人が日本のドラマでちゃんとした役をとるには、僕自身が有名にならなきゃダメなんだって」
そんな折、知り合いから紹介されたのが、お笑い志望のマックンだった。
「お笑いやってるのにまじめそうっていうのがマックンの第一印象。でも、その日のうちに飲みに行って、夢を語って意気投合してね。コンビを組もうって話になりました。アメリカではコメディアンしながら役者をする人はたくさんいるので、オレも、日本のユーモアを勉強するいいチャンスだと思ったんです」
こうして1997年、パックンマックンを結成。ハーバード大学卒のパックンと群馬出身のマックンの異色のコンビでコント漫才を始めた。
ところが、「すぐに大ゲンカ!」と、マックンこと吉田眞さん(48)が振り返る。
「最初、僕らのコントはボケとツッコミがある日本式のスタイルだったんです。でも、アメリカのお笑いはボケ、ツッコミの習慣がないから、ボケ役のパックンは、僕がツッコむたびに手でハタくのが気に入らなかったんですね。
舞台を降りたとたん、すごい剣幕で怒りだして、『オマエが叩いた回数、オレにも叩かせろ』って(笑)。アメリカ人のプライドもあったんだろうなあ。その時は僕も腹が立って、そんなことじゃ、おまえは日本でお笑いできないぞって、もうケンカ別れ」
結局、すぐに仲直りしたが、これを機に2人は、日米コンビならではのオリジナルの笑いを追求していったという。
マックンが話す。
「激しいボケとツッコミはやめて、正統派に切り替えようと。かといって、外国人が『日本語わかりませ~ん』ってオチのベタなコントでは、すぐ飽きられちゃう。でね、もともと日本人同士でコントをやるつもりで書きためていたネタを、アレンジしてみたんです。どんなネタかって?」
そう言うと、ショートコントを披露する。
「パックンがアルバイトの応募者で、僕が面接官。コンコン。ドアをノックして、パックンが緊張ぎみに入ってくる。僕が『きみ、名前は?』って聞くと、パックンがあの顔で、『宮下です』。『出身はどこ?』『亀有です』」
シュールなコントは、路上ライブで大ウケ。手応えを感じた2人は、ライブハウスの舞台にも立つようになった。
マックンが続ける。
「慣れないころは、ウケないと僕らの動揺がお客さんに伝わって、会場の空気が冷えたこともあります。だから、何があってもブレずにやろう!ってパックンと気合を入れてね。10人、20人の少ないお客さんでも、その人たちが大爆笑すればオッケー。来てないヤツら損したな!くらいの気持ちで舞台に立ちました」
異色のコンビは評判になり、結成から2年半で、早くも全国ネットの情報番組でレギュラーを獲得。お笑い芸人の登竜門、『爆笑オンエアバトル』(NHK)でもチャンピオン大会に進出するなど、着実に人気を積み上げていった。
パックンが話す。
「日本のお笑いは、アメリカと違って下ネタや政治の話もタブー。ヘン顔すると引かれちゃうから真顔でコントが基本です。そういうことを教えてくれたのがマックン。え?いつから日本のお笑いに慣れたかって? 20年前、いや10年前、おとといですっ!」
真顔でジョークを飛ばすが、結成以来24年、安定した人気を誇るのは、試行錯誤しながら進化を続けているからだろう。
「オレは今も役者志望だけど、芸人やタレント業の楽しさを捨てて、ドラマの撮影一本に絞るとなったら迷うなあ。(マネージャーを見て)えっ!迷わなくていい?役者のオファー、そもそも来てないって!」