美沙の問題行動は続く。雅樹が夜遅くに帰宅した日に、長男が駆け寄ってきた。美沙の体調が悪く、夕食を済ませていないというのだ。雅樹はすぐに食事を作って与えた。美沙は娘だけに食事を与え、長男には与えていなかったのだ。
さらには長男を怒鳴りつけ、蹴り飛ばすこともあったという。
「何すんだよ、やめろよ」
ある日、倒れ込んだ長男を抱き起こす雅樹に、美沙はテーブルにあった封筒を投げつけてきた。それは借金返済の督促状だった。
「あんたも親父に似て馬鹿なんだから」
雅樹の父親は経営に失敗し、破産していた。雅樹は沸々と殺意が込み上げてくるのを感じていた。これまで目にしてきた妻の言動、そして父の葬儀の間、ずっと友人と電話やメールをしていた美沙の姿も蘇ってきた。
「この子にもおんなじ血が流れてると思うと虫唾が走る! 本当に間抜けな家族!」
そう言われた雅樹は、息子にお菓子を渡して子ども部屋に行くよう伝えたことまでは覚えているが、その後の記憶は定かではないという。我に返った雅樹が見たものは、血まみれで倒れている妻と返り血を浴びた自分の姿だった。
家族に絶対言ってはならないこと
度重なる美沙からの両親を侮辱する言葉に、雅樹は殺意を募らせていった。息子への暴力と暴言を目の当たりにし、ついに理性が崩壊した。
しかし、どれだけ酷い言葉を浴びせられようとも、人を殺していい理由には到底なり得ない。酒やギャンブルに逃げず、妻とコミュニケーションを取ることで問題を解決する努力を重ねていれば、事件は回避できたはずだ。
家族を侮辱されたことへの憤怒は「家族間殺人」の動機として度々報告されている。
たとえ自分の家族をよく思っていなかったとしても、他人から悪口を言われると傷ついてしまうのは、家族は自分の一部であり、自分まで否定されたように感じるからであろう。
配偶者の家族と折り合いが悪く、悩みを抱えている人は少なくない。耐えられないことは率直に配偶者に伝え、話し合うことが重要だ。
ただし、くれぐれも言い方には注意が必要である。他人に対して抑えるべき言葉は、家族に対しても控えるべきなのだ。
一瞬でも、家族に対して殺意が湧いたことがあるという人は、実は少なくないのではないか。他人ごとにせず、長く付き合う家族だからこそ気を付けるべきことを、今一度考えてみる必要がある。
阿部恭子(あべ・きょうこ)
NPO法人World Open Heart理事長。日本で初めて犯罪加害者家族を対象とした支援組織を設立。全国の加害者家族からの相談に対応しながら講演や執筆活動を展開。著書『家族という呪い―加害者と暮らし続けるということ』(幻冬舎新書、2019)、『息子が人を殺しました―加害者家族の真実』(幻冬舎新書、2017)、『家族間殺人』(幻冬舎新書、2021)など。