「あのババア、やっと死にやがった」

 戦前から浅草の街を見続けて84年──。

 時代の変化とともに、街の様子もまた移り変わっていく。今や浅草を訪れる観光客の多くは若者たちだ。冨永さんが語る。

「今、浅草でいちばんの上客は、修学旅行で訪れる学生ですよ。500円とか1000円で人形焼きなんかを買っていく。すっかり若者の街になりました。そんな彼らから、“雷門は知っているけど、観音様(浅草寺のご本尊)のことは知らない”と言われて驚きましたね。インスタ映えの時代なんです。ショックでしたけど、私たちの世代も、そういう若者感覚をやはり認識しないとダメなんです」

 仲見世は浅草で「観光地」という位置づけだが、女将にとっての思い入れはやはり、六区の「盛り場」だ。かつての苦い経験も思い出される。

 それは明治時代に開場した「常盤座」と呼ばれる六区初の劇場でのことだ。昭和40年には映画館に転向し、やがて周囲の衰退とともに休館に追い込まれた。

 浅草の行く末を憂えていた冨永さんは、常盤座へジャズを呼ぶという斬新なアイデアを思いついた。その少し前、米ニューオーリンズにジャズの見学に行ったときの体験から着想を得た。再び渡米し、出演契約を結んでジャズフェスティバルを開催。これが当たったため、常盤座を借りる契約を結び、お笑いのイベントも始めた。

 ところが、かつてのにぎわいを取り戻したと思ったのもつかの間、昭和天皇の病気に伴い、イベントを自粛せざるをえなくなった。

「赤字が2000万円ほど出て、1週間ほど寝られなかった。血尿も出た。仲間の女将は円形脱毛症になったの。だからといって天皇陛下を恨むわけにもいかないしね。でもね、そういう苦しい思いをしないと一人前にはなれない。街のために血のにじむような努力ができますかって」

 その後はロック歌手の内田裕也氏が年越しコンサートを開催したり、俳優・石坂浩二氏が主宰する『劇団急旋回』が公演を行ったりしたが、再開発のため平成3年、浅草初の劇場誕生から100年の歴史に幕を閉じた。

盛り場・浅草に大衆芸能の劇場をつくることが、冨永さんの夢だ
盛り場・浅草に大衆芸能の劇場をつくることが、冨永さんの夢だ
【写真】ダイエー創業者など、名だたる財界人の隣に並ぶ冨永照子さん

 当時の思いを今も引きずる冨永さんには、浅草に大衆芸能の劇場をつくりたいという夢がある。

「夜はやっぱり、盛り場じゃなきゃいけない。浅草が絶対に負けないのは芸能だけ。それを復活させるのが私の最後の夢なの。浅草はねえ、常に好奇心をそそるイベントをやらなきゃダメなんですよ」

 とても80歳を越えているとは思えないほどの迫力とエネルギーだ。そんな女将の背中を、長男の龍司さんはこう見つめてきた。

「母は、ただ浅草を何とかしなきゃいけないという思いでいろんなことをやっている。それが生きがいで、もはや趣味みたいなもんです。おかげで84歳にもかかわらずあれだけ元気だから、私が介護に悩む必要もないし、自分の仕事に専念できます。ありがたいですね」

息子・龍司さんは「十和田」のほか揚げ饅頭店の経営にも携わり、親子でのれんを守っている
息子・龍司さんは「十和田」のほか揚げ饅頭店の経営にも携わり、親子でのれんを守っている

 一方の冨永さんは世代交代も視野に入れているが、今でも日々店頭に立つ姿は、まだまだ現役を感じさせる。

「年をとっても人生には新しい御旗(みはた)を立てなきゃならない。そこに向かって進めば、ぶれることはありません。もし旗印がなければ、反省し、考え直してまた一からやればいいんです。この生きにくい時代には、心の訓練が大切よ。やっぱり心の持ち方なんだよ。それでも解決しなかったら私に電話しろって。朝9時ぐらいだったらつかまるよ。あんまり早くはダメよ!

 そう語る女将の扇子が、勢いよくテーブルをパチパチと打ち鳴らした。

「私もそのうちに間違いなく言われるよ。“あのババア、やっと死にやがった”って。そう言われるのを楽しみにしてるよ」

 これぞ粋な浅草の心意気である。

(取材・文/水谷竹秀)

みずたに・たけひで 日本とアジアを拠点に活動するノンフィクションライター。三重県生まれ。カメラマン、新聞記者を経てフリー。開高健ノンフィクション賞を受賞した『日本を捨てた男たち』(集英社)ほか、著書多数。