英国で見た本場のマナー
ひろ子さんは、イギリス・オックスフォードにある語学学校に通い始めた。
「英語がまったくダメだったので、まずは言葉を何とかしようと。ハロー、サンキューくらいしか言えなかったんです(苦笑)。
イギリスではマナーの学校に通うことはありませんでした。それよりも、イギリスの人たちの生活そのもの、街中で見かける何げない風景のすべてが私にとっては、マナーの学校でしたね」
バスに乗ったとき。乗り込んできた乗客は必ず運転手に「グッモーニン」「ハロー」と挨拶をする。すると運転手も必ず返してくれる。降りるときも必ず「サンキュー」と言って降りる。運転手も必ずひとりひとりに「サンキュー」と返していた。
「最も印象的だったのは、建物に入るためにドアを開けるとき、必ずみんなが後ろを振り返ること。そこに人が居合わせたら老若男女問わず、『お先にどうぞ』と通してくれる。
道路を横断しようと道の端に立てば、車が途切れるのを待つまでもなく、車はすぐに止まってくれて、笑顔とジェスチャーで『どうぞ』と横断させてくれる。日本でほとんど見ることのない光景が、イギリスでは当たり前にありました。そして、日常のありとあらゆるところに『サンキュー』が飛び交っていたのです」
洋食のテーブルマナーも、イギリスでの実体験から直接学んでいった。
イギリスでの生活にも慣れたころ、ひろ子さんは現地で知り合った友人と起業する。
英国在住の日本人学生が、帰国後に就職活動をするための準備として、また日本企業に就職したい外国人向けに「日本のビジネスマナー」を教える会社を立ち上げようということになったのだ。
さらに、オックスフォードとケンブリッジ大卒の学者を集めた「知的人材バンク」の事業もスタート。日本人の研究者たちの論文を英訳し、『ネイチャー』や『サイエンス』などの世界的に有名な雑誌に投稿するサービスだった。
「普通の翻訳会社と違って質がよかったみたいで大当たり。私はときどき日本に戻って営業をしに行きました。今、私が講演で話す“ビジネスマナー”は、このときの営業経験がもとになっているんです」
クライアントは、主に東大や京大などの研究者と製薬会社。『イギリスが本社』と説明しても怪しまれ、なかなか信用してもらえず、苦労した。
「まずは人に信用してもらうことからスタートだと思い、『マナーの基本5原則』を活用しました。
また、この営業で実践したのは『ハイ!』と感じのよい返事をすること。そして『相手の名前を呼びながらコミュニケーションする』ということでした」
イギリスでは必ず、『ヒロコ!』と名前を呼んで声をかけられた。それがヒントになったという。
「名前を呼ばれると、社会的に認められた気持ちになって、私にはとても心地よかった。名前を呼ぶコミュニケーションを日本でもきちんと定着させようと思いました」
営業のコツを少しずつつかみ、顧客は増えていった。
だが、困ったことにイギリスの人たちは納期を守らなかった。注意しても、改善されない。ひろ子さんは日本の研究者たちからのクレーム対応に追われた。
「どんなに怒鳴られても、相手が困っていらっしゃることを想像し、心の底からお詫びをする。電話で1、2時間ブワーッとクレームを言われても、何時間でも相手の話を聞きました」
謝罪の言葉を繰り返しても、そこにちゃんと気持ちが入っていないと慇懃無礼で相手には何も伝わらない。
「多少言葉遣いが間違っていようとも、相手の立場に立って、『お気持ちは大変よくわかります。申し訳ございません』と本当に心を込めて伝えることで、めちゃめちゃ怒っていた先生たちが、最後には新しい仕事を依頼してくださり、電話を終えられるんですね」
クレーム処理はマイナスの事態だが、そんなときこそ、心を込めたマナーのある応対で、相手の印象をプラスに変えることができたという。
31歳から35歳まで、都合4年間、ひろ子さんはイギリスに滞在。その間もときどき帰国しながら、マナーの仕事や秘書業、営業をこなしていた。
そして2002年、大手飲料メーカーのヨーロッパ支社に勤める日本人会社員と結婚。日本に拠点を移し、本格的にマナー講師の活動を再開する。
'03年には、初めての著作となる『オックスフォード流 一流になる人のビジネスマナー』を上梓。2年後に発売された『完全ビジネスマナー』がヒット、'06年には『お仕事のマナーとコツ』が28万部のベストセラーとなり、マナー講師としての立場を確立できるようになっていった。