最高裁で母と争った末に……

 九州で母と暮らす弟は、介護福祉士として再スタートを切っているはずだった。しかし、彼はいつの間にか、雀荘の店長になっていた。そして、あちこちで借金を繰り返し、母を苦しめていた。

「人材の育成に携わる自分が実の弟の育成すらできていない。これはおかしな話だと思ってしまって……。弟を自分の会社に引き取って更生させようと試みました。でも、私がやりたいことはいつも応援してくれた夫が、初めて大反対したんですね。私は土下座して頼み、承知してもらいました。ありがたかったです」

 しばらくは弟も姉のサポート役としてまじめに仕事をしていた。彼なりに人生をもう一度立て直したいという思いでいることが、ひろ子さんには伝わっていた。

 ところが──。弟はやはりお金が原因で問題を起こしてしまう。

「弟は完全に壊れていました。病気ですね。平気で嘘をつけるようになっていたんです。ある日、『病気だったら治せるから、あなたの上司としてではなく、お姉ちゃんとして治してあげるから、一緒に頑張ろうね』と弟を抱きしめたんです。彼もワンワン泣きながら頷いてくれました。どこかで、母のため……という思いがあったんです。小さいころから弟を可愛がっていた母が悲しむから、私が何とか更生させなきゃって……」

 そう言って口を噤(つぐ)んだひろ子さんは涙を見せた。病院にも連れていってみたが、やはりどうにもならなかったという。

「弟が私の会社で悪さしたのは、私のせいだと母に言われて……。心が折れてしまいました」

 結局、後ろ髪をひかれる思いで、弟を母のもとに戻す決断をする。

 だが、その後、マナー講師の仕事に打ち込み、事業も順調に展開し始めていた2009年、とんでもないことが起こる。

 母親から訴状が届いたのだ。

「ある日、母から『実印と福岡の土地の謄本を持って帰ってきなさい』と突然電話がかかってきました。『え? なんで?』と聞いたけど、理由を言わない。放っておいたら訴状が届いたんです」

 母親は弟の借金返済のため、お金が必要だったと後で知った。

 裁判は結局、最高裁までもつれた。

「最終的に私はその土地を売って母のために清算しました。法廷では母とは『これで最後だろうな』という覚悟で会いましたね」

 そして係争中、あろうことか、ひろ子さんは、相手の弁護士を通じて弟の死を知らされたのだ。

「耳を疑いました。弟は自ら命を絶ってしまったのです。発見された場所は彼が学生時代を過ごした東京のある公園の公衆トイレでした。母に宛てた遺書があったようで、警察はまず母に連絡をしたみたいですね。母は『遺骨を引き取りには行けない』と言い、遺骨は飛行機で母のもとに送られたと聞きました。いくら係争中だとはいえ、東京にいる私になぜ、すぐに連絡してくれなかったのか……」

 ひろ子さんをそばで支えていた夫も気が気ではなかったという。

「お母さんとのトラブルは、私の立場から安易に立ち入れない。裁判中は、彼女と『なんでこんなことになるの?』と話すこともありました。弟さんも残念でした。本当に彼女もつらかったと思います。でも、そんなことがあっても、彼女は明るい。仕事も懸命に続けていました」

 現在、母親とは音信不通。居場所さえ知らないと言う。

「私はずっと母に『幸せになってもらいたい』と思ってきました。なのに、母は言いがかりのような訴えを起こしてきた。私は途中で和解案を持ちかけましたが、母はそれさえも拒絶してきました」

 両親の離婚のとき同様、何とか折り合いをつけたいと最後まで願ったが、叶わなかった。

「いちばん大切なのは、相手の立場に立って、思いやる心を持つこと。そして決めつけないこと。母はこうでなければならないと譲らない人でした。言っていることは正しいかもしれないけど、人生には杓子定規にいかないことも起きる。母ももっと生き方を上手にできれば、こうはならなかったのかなと。人としての柔軟さがないと、幸せにはなれないんじゃないかって思うんです。だから、うちの家族はみんな残念なんです。父も母も弟も……」

 あまりにいろんなことが起きすぎたため、子どもをつくることは怖かったと告白する。

「夫には申し訳ないのですが、あまり子どもが欲しいとは思わなかったんですよ。万一、同じようなことが起きたら……って。これは、私の代で終わりにしなきゃいけないな、と思ってしまったんです」

 冒頭の講義で「ハッピー」という言葉を何度も繰り返し伝えていたひろ子さん。その笑顔の裏には、家族の問題を反面教師にして生きたいという強い思いが込められていた。

「こんな事態を招かないような世界にしたい。私はマナーという形で“思いやりの心”を伝え続けているんです」