目次
Page 1
ー 蝶よ花よと育てられた幼少期
Page 2
ー 「ゲイであること」への否定と受容 ー 初恋人は、年齢詐称の“パチンカス”
Page 3
ー 父親との別れ、そして「Tomy」の誕生
Page 4
ー 2度目の、大きくて深すぎる「喪失」
Page 5
ー オネエ口調が受け、起死回生の大ヒットに
Page 6
ー “謎の存在”から脱却し、新しい「Tomy」へ

《ストレスを減らすたった一つの方法。それは『手放す』ことよ。執着を手放す。
「こうならなきゃいけない」を手放す。
人をコントロールしたい気持ちを手放す。
手放せるものは沢山あるわ。
手放せば手放すほど心は楽になっていく。
最後にどうしても手放せないものがある。これが生きる理由よ》『1秒で不安が吹き飛ぶ言葉』(ダイヤモンド社)より

 誰しもが多かれ少なかれ抱える生きづらさに、ストレートに刺さる名言である。こんな言葉を呼吸をするように日々生み出し、X(旧Twitter)上で発信を続けているのは、精神科医のTomy先生だ。X上で発信した言葉をまとめた本はすでに9冊目、シリーズ累計発行36万部を超える、悩める人々の頼れる導き手である。

ゲイの精神科医」という触れ込み、文章での一人称は「アテクシ」、そして似顔絵(?)はゆるふわカールなヘアスタイルにキラキラおめめ、ちょっぴり青いヒゲの剃りあとには“ナンノボクロ”……というクラシックな“オネエ像”を持つ人である。どんなコテコテのおネエさんが来るかと身構えていたら、高身長で温厚そうな男性が現れて逆に衝撃を受けた。

 189センチという長身に若干、気おされつつも、インタビューを開始すれば穏やかな語り口での“おしゃべり”は尽きない。ゲイバーに通って25年超えの筆者だが「この後飲みに行きません?」という言葉が何度も口から出かかった(そして実際に出た)インタビューは初めてである……。「精神科医Tomy」という人物を形づくる、“ほんの一部”を皆さんと読み解いていきたい。

蝶よ花よと育てられた幼少期

家族写真。左から父、15歳年上の姉、母
家族写真。左から父、15歳年上の姉、母

 Tomy先生の両親は台湾出身で、台湾にて開業医をしていた祖父をルーツに持つ医師の家系だ。父親は独立心が強く、台湾で一級建築士になったあと、医師を目指して東京大学の留学生枠を受験し、一発合格。医師となった父は日本中を渡り歩き、最後に根を下ろしたのは名古屋にほど近い、東海地方の片田舎にある診療所だった。そこで生まれたのが、Tomy先生である。生まれたときの体重は4350グラムとかなりの健康優良児だったが、幼少のころは偏食がひどかったという。

3歳か4歳のころはお肉しか食べなくて、父親が仕事を終えると毎日『ステーキのあさくま』に連れていってくれていたようです。今考えるとありえませんよね(笑)。台湾で生まれたお姉ちゃんとは年も15歳離れていたし、みんなにすごく可愛がってもらっていたと思います」(Tomy先生、以下同)

 蝶よ花よと可愛がられた反面、幼少期に見るテレビ番組や本、遊びは厳しく制限されていた。テレビゲームの類いは中学生まで禁止。家族で見ることができたテレビは『わくわく動物ランド』(TBS系)に代表される動物番組と“健全な”アニメ。そして漫画もほとんどが許されていなかった。しかし「学習まんが」は好きなだけ買ってもらえたので、Tomy少年は学習まんがをページの端にある「一行豆知識」に至るまで何度も読み返したという。

「本屋にはよく連れていってもらいました。推理小説なんかも好きで、アガサ・クリスティを全巻読んだりしていて、そのころから本に対する憧れというか、物書きになりたい気持ちが育っていったのですが、あまり現実的には考えていませんでした」

 そんな彼の「書きたい」という憧れが向かった先は、雑誌の読者投稿欄。幼き「ハガキ職人」よろしく、思いついたネタを雑誌に送り、掲載されることもしばしばあったという。また、中学・高校時代には学級新聞を発行したり、文化祭で演じる劇の脚本を担当し、「文化祭マスター」と呼ばれていたことも創作の原体験だという。

生まれたときは4350グラム。「溺愛されて育った」そう
生まれたときは4350グラム。「溺愛されて育った」そう

「小さいころはサッカーやドッジボールみたいな男らしい遊びはほぼしませんでしたね。男の子はみんなザリガニを捕りにいったりしていたんですけど、僕は遠くから見ているだけでした。親も事故の心配をしていて、危ないところに行かせたくない気持ちもあったと思います」

 本が好きで、インドア趣味で、女の子と遊ぶことも多かったというTomy少年。物書きを夢見つつも、将来は医師になると決めていた。

「お父さんはほぼ毎日、一日中自宅で診療をしていて、少ない休みで家族をいろいろなところに連れていってくれる人でした。そんなお父さんが年を取ったら、当然僕が同じことをやるしかないよね、と、医者になることは早いうちから決めていましたね」