目次
Page 1
ー 半年間、見続けた『紅白歌合戦』
Page 2
ー 宮古島から東京へ
Page 3
ー 暗黒の新入社員時代
Page 4
ー 盟友・森永卓郎さんとの出会い
Page 5
ー 死生観の変化

「◯月◯日◯曜日、時刻は8時になりました。おはようございます、垣花正です」

 月~木曜の朝8時、この挨拶とともに始まるのが、個性的なコメンテーターやゲストとともに最新のニュースや話題を取り上げ、専門家による解説を交えた情報を届けるラジオ番組『垣花正 あなたとハッピー!』(ニッポン放送)だ。この番組で一日が始まるという方も多いだろう。パーソナリティーを務めるのは、フリーアナウンサーの垣花正だ。

「ニュース番組=堅苦しいではなくて、雑談しながらめちゃくちゃ芯を食ったことや踏み込んだことを言ってるな、自分たちの生活に関わることって意外とニュースの中にあるな、ということがリスナーに伝わる番組がいちばん理想と思っているんです」

 2007年にスタートした『あなたとハッピー!』の番組ホームページには《月~木曜日はふつーの男・沖縄県宮古島出身の垣花正が担当!》とある。しかし垣花が歩んできた人生はなかなか普通とは言い難い、数多くの失敗や紆余曲折を経ている。

半年間、見続けた『紅白歌合戦』

正月に生まれたことと、一が5つそろって“正”という名前に
正月に生まれたことと、一が5つそろって“正”という名前に

 垣花は1972年1月1日、沖縄県平良市(現・宮古島市)で両親共に教師の家庭の長男として生まれた。名前の「正」は正月生まれであることが由来だが、実はそれ以外にも意味が込められているという。

「子どものころに『正月生まれだから正って単純だ』と言ったら、父が『正は一が5つある字なんだ』と。僕が生まれたのが年がかわってすぐの1月1日の深夜1時過ぎで、第1子で、病室が1号室だったことが理由なんだそうです……後づけだと思いますが(笑)」

 垣花は沖縄本島から南西に約300キロ離れた宮古島で、高校を卒業する18歳まで育った。

「うちでは親戚がよく集まっていたんですよ。大人たちは車座になって泡盛飲んで、踊って、子どもたちは別室に集まって騒いだりするんですけど、そこで僕は親戚の子を相手に、テレビのクイズ番組の司会のまねごとをしていたんです」

 当時、宮古島で視聴できたテレビ局はNHKのみ、ラジオはNHKとTBS系の琉球放送だけだった。

「だから小学生の僕にとってこの世でいちばん面白い人が、NHKの鈴木健二アナだったんです(笑)。あとは松平定知アナとか宮本隆治アナも好きでしたね。本当、『紅白歌合戦』なんて、録画して半年くらい見続けるものだったんですよ」

 夏休みには沖縄本島に住む親戚の家に集まって過ごすのが垣花家の恒例行事で、宮古島では映らない民放のテレビ番組を見るのが楽しみだったという。

「いとこたちが土曜の夜に『8時だョ!全員集合』を見るか『オレたちひょうきん族』を見るかで言い争いをしていて、“チャンネル争い”というものがあるのかと驚きました」

小学生のときに「沖縄豆記者交歓会」に参加したことが原点だという
小学生のときに「沖縄豆記者交歓会」に参加したことが原点だという

 また小学5年生のとき、沖縄の小・中学生が東京などで取材活動や交流を体験できる「沖縄豆記者交歓会」に参加したことが心に残っているという。

「国会議事堂や後楽園球場を見学するだけじゃなくて、江川卓選手や原辰徳選手にインタビューさせてもらったり、軽井沢で当時の皇太子殿下、今の天皇陛下の前で沖縄民謡を歌ったりもしました。『宮古島はどんなところですか』とお尋ねになる時間もあったりして。この経験が結構大きくて、僕の中でマスコミに触れる初めての体験でしたね」

 中学生になるとラジオ放送も聴き始め、発売日から遅れて宮古島へと届けられる雑誌も読むようになる。

「すると、どうやら東京や大阪にはテレビ局やラジオ局がたくさんあるらしいと、キー局の存在に気づくんです。そうやって意識が変わっていくと、見たいとか聴きたいが『東京行きたい』にダイレクトにつながっちゃったんですね。中2ぐらいからかな、もう、とにかく東京に行くためにはどうしたらいいかって考え始めました」

 宮古島を出なければと思った垣花は、沖縄本島の高校へ進学したいと両親に交渉した。

「毎日プレゼンして、夜な夜な相談したんですけど、毎回最後に『どうせ大学進学で家を出てしまうのであれば、あと3年だけは親元にいてくれ』と母親に泣かれて。あちゃー、と思いましたね」

 1987年、両親の母校でもある島内の宮古高校へ入学、大学進学について思案する垣花は、通っていた書店で大学受験情報誌『螢雪時代』を発見、自己推薦入試の存在を知る。

愛くるしい笑顔はこのときから健在
愛くるしい笑顔はこのときから健在

「もう僕にはこれしかない!と思いましたね。雑誌には合格者50人ほどの経歴が掲載されていました。運動部の全国大会優勝者もいるけど、文化的なことで合格している人もいて、これはいろんな実績を認めるんだなというのがわかったんです」

 実績をつくろうと考えた垣花は、すぐに放送部へ入部。すると友人らと制作したラジオドラマがNHK放送コンクールの沖縄県大会で優秀賞を獲得し、全国大会へ進出した。

「結果発表は渋谷のNHKホールでやったんですけど、入賞はできませんでした。そのあと自由時間があったので、『今日は思い切ってバラバラに行動しよう』となって、僕は渋谷を歩いたんです。それまで豆記者や家族と一緒に東京へは行ってましたけど、ひとりは初めてで。

 田舎者だって思われないようガチガチに緊張しながら、マクドナルドでハンバーガーを買って食べたんですけど、もうたまらんと思って、泊まっていた赤坂のホテルに帰ろうとしたら、勘違いして浅草へ行って迷子になりました(笑)。渋谷の道行く人全員が芸能人に見えましたね。あれは緊張したな~!」