宮古島から東京へ
自己推薦入試で早稲田大学を受験するという話には、両親も学校の先生も「何を考えてるんだ?」となったと言う垣花。
「受かるわけないだろう、と思われてましたね(笑)。でも僕は自信満々で、受かる以外は考えていませんでした。試験の面接でも僕がいちばん声がデカいな、とか謎の自信持ってましたから」
結果は見事、合格。宮古島から早稲田大学への進学者は30年以上ぶりということで、地元の新聞社3社が取材に来たという。そして1990年、大学進学のため宮古島を離れた。
「当時、米米CLUBの『浪漫飛行』がJALのキャンペーンソングで、音楽にノリながらウキウキで上京しました。母と高田馬場の駅で『タムって駅はどうやって行ったらいいんですか?』と周りの人に聞いて、田無は“タナシ”と読むんだと教えてもらって(笑)」
都下の田無市(現・西東京市)にある早稲田大学の寮に入った垣花は、大学4年間をここで過ごした。
「楽しかったですね。宮古島から上京した自分にはツテが何もなかったんですけど、寮に入ったらイベントが立て続けにあって、どんどん周囲と仲良くなっていきました。
ただ、体育会のような縦社会だったんで、先輩に叱られたりもしましたけど、いろいろ叩き込まれて寮になじんでいくのと同時に、東京になんとなく居場所ができる感じでした」
いくつかのサークルに顔を出してみたもののしっくりこなかった垣花は、大学2年のときに萩本欽一が後進育成のために立ち上げた欽ちゃん劇団のオーディションを受験、ここでも見事合格し、1期生として入団する。劇団の旗揚げ公演では後にお笑いコンビ『あさりど』を結成する堀口文宏、川本成らとともに選出され、舞台に立った。
「中高生のときに情報がなくて、しかもミーハーだから、東京に行きたいのと同時にテレビに出てみたいという気持ちもあったんですよね。それで上京してから素人参加型テレビ番組に出たりしていたんです。アナウンサーもテレビに出る仕事だからと早稲田のアナウンス研究会にも行ったんですけど、発声練習とか腹式呼吸が遠回りに見えて、すぐに行かなくなってしまって。
自分は面白いことをやりたいという勘違いから始まっているので、なんか違うな、まじめなことやってんな、と思っちゃったんですよね」
そんな気持ちから欽ちゃん劇団の門を叩いた垣花だったが、そのまま将来が不安定な芸人になるコースが見えた途端、怖くなったという。
「どう考えても周りに自分より面白い人がいっぱいいましたから、お笑いでもないし、ましてやミュージシャンや役者でもない……僕の中にそういうサンプルがなかったんですよ。それこそ10代で見ていたNHKのアナウンサーしか“人前に出る”というサンプルがなかった。それで『すいません。大学に戻ってもう一度考え直します』と手紙を書いて、逃げました」
大学3年になった垣花は就職活動を開始、やはり昔から憧れたアナウンサーになろうとアナウンススクールに通い始める。
「自己推薦で東京に来られたという成功体験があるから、面接に強いという自信があって。なんといっても僕にはあの欽ちゃんから直々に教わった経験がありますからね、これは使えるなと(笑)。そうやって抜け道を探すのって、高校生のときから変わってないんです」
就職活動は予想以上にうまくいき、2社目に受けたフジテレビでは最終面接までこぎ着けた。
「それで『いけるじゃん!』と思って。同時進行していたニッポン放送でも最終面接までいって、当時の社長の前で靴をマイク代わりにして桑田佳祐さんの歌まねをやったんですよ。自分ではウケると思っていたんですけど、『あんまり似てないね』と言われてしまって(笑)」
それが功を奏したのか、垣花は内定を獲得。「東京の放送局だったらどこでもよかったし、内定は早ければ早いほどうれしかった」ため、就職活動を早々に終えた。
「同じアナウンススクールに、後にNHKに入って『のど自慢』の司会で大活躍する小田切千アナがいたんです。彼は民放全滅で相談を受けたんですけど、もう僕は早々に内定をもらってますからね、得意げに『大丈夫だよ、千!』なんて励まして。今考えると……恥ずかしいですね」