マリンタワーを横目に首都高速を降りると、横浜の街は春霞(はるがすみ)に煙(けぶ)っていた。
ソーダ水の中を 貨物船がとおる
ユーミンの『海を見ていた午後』がラジオから聴こえる。
この街にはやはり、ゆったりとした時間がよく似合う。
谷戸坂を上り、港の見える丘公園を見ながら外国人墓地を抜けると異国情緒あふれるマイホームタウン。
この街を愛してやまない北原照久(77)が『ブリキのおもちゃ博物館』をオープンしたのは1986年4月7日。今から40年近く前のことだ。
好調な滑り出し
山手の教会から目と鼻の先にたたずむ洋館の空き家を、自分たちでリフォームしてオープンにこぎつけた。
義理の母が保証人になって生命保険会社から借りた1500万円も、入居の際の諸経費をはじめ改装や内装の費用、商品類を仕入れたら、きれいさっぱり消えてなくなった。残っているのは3万5000点に及ぶ膨大なコレクションだけ。
「もし、どうにもならなくなったら、アメリカ行きのエアチケットを買って、おもちゃをトランクに詰めて売ってくればいい。なんとかなるさ」
そんな気持ちで常に自分を奮い立たせてきた。

横浜の新名所を目指して、博物館もショップも年中無休で営業した。当時珍しかったプライベート・ミュージアムの存在を知ってほしくて、コレクションを紹介してくれた出版社に頼み、オープンの告知を人気雑誌に掲載してもらった。
そうした地道な宣伝活動が功を奏してか、『ブリキのおもちゃ博物館』は快調な滑り出しをみせた。
さらに隣の洋館を借りて、一年中クリスマスのアイテムを扱う『クリスマストイズ』をその年の9月にオープンさせた。
「時代はバブル真っただ中、1本何万円もするクリスマスツリーが飛ぶように売れ、売り上げは倍々ゲームで伸びていきました。
イブ当日には地元テレビ局がお店から生中継してくれることになり、オールナイトで営業すると宣言しました。
ところがお客さまが殺到して夜の10時過ぎに営業を慌てて中止。山手署で始末書にサインしたことも今では懐かしい思い出です」
オープン当初はわからないことだらけ。ハプニングが次々に襲ってきた。
「クリスマスの次は、バレンタインデーだ」
そう意気込んで700万円分のチョコレートを仕入れた。ところがまったく売れずに山のような在庫を抱えてしまう。
「東京・京橋にある実家のスポーツ店では飛ぶように売れた“義理チョコ”が、このあたりではまったく売れませんでした。横浜の山手のあたりは“本命チョコ”しか売れない。このときは、慌てて銀行に駆け込みました」
まさに好事魔多し、である。