2008年のデビュー以来、警察、弁護士、家庭裁判所、将棋など幅広い題材をもとに骨太な作品を発表し、多くの読者に支持されている小説家の柚月裕子さん。
最新作は構想から完成までに14年の歳月

映画化された『孤狼の血』では型破りな刑事と暴力団同士の抗争を描き、ドラマ化された『最後の証人』をはじめとする佐方貞人シリーズでは刑事事件の真相を追求し、過去にドラマ化され、今年は映画が公開予定の『盤上の向日葵』では、名駒を手がかりに事件を追う刑事と異例の経歴でプロ棋士になった青年の生きざまに迫っている。
最新作『逃亡者は北へ向かう』は、震災の被災地を舞台に逃亡する殺人犯と彼を追う刑事の姿を描いたクライムサスペンスだ。
「罪を犯した青年がある目的のために逃亡し、それを刑事らが追っていくというお話で、ストーリー自体はシンプルです。ただ、青年はなぜ北に向かうのか、刑事は震災で娘が行方不明になっているにもかかわらず、なぜ娘を捜さずに犯人を追うのか。私はこれまでの作品の中で、登場人物たちがその時々に何を思い、つらい状況の中で、なぜその選択をしたのか、ということを考えてきました。今回はそのことをより一層、突き詰めたように思います」

本作は構想から完成までに14年の歳月を費やしている。構想の時期は2011年、東日本大震災の後のことだった。
「作家さんの中には、早い時期から震災を描いた作品を書かれた方もいらっしゃいます。でも、そのころの私は自分が何をすればいいのかわかりませんでした。わからないながらも、“小説を書こう”と思い、当時の新潮社の編集者さんに“被災地を舞台にしたものを書かせていただけないでしょうか”とお願いしたんです。震災は今よりもずっとデリケートな問題で、いろいろな状況が落ち着かない時期でもありました。それでも編集者さんが“被災地を舞台にした小説を作りましょう”と言ってくださり、構想を練り始めたんです」
作品の構想自体はすぐに立ち上がった。だが、なかなか書き始めることができず、ようやく書き進めても途中で何度も手が止まった。
「この作品を執筆すると、その夜に必ず地震や津波の夢を見て。それがすごくつらかったんですね。夢を見るたびに“あ、そっか。私にはまだ、無理なんだな”と執筆をやめていました。だから、書き上げるまでに14年もの時間がかかってしまったんです」
東日本大震災で実家と両親を失った

柚月さんは山形県在住で、出身は岩手県。両親が暮らす実家は岩手県の宮古市にあった。市沿岸部は津波による甚大な被害を受けた場所だ。
「震災直後に両親と連絡がとれなくなりました。ようやく宮古市に行けたのは震災から1週間後のことです。実家があった場所は、あたり一面、何もなくなっていました」
柚月さんのエッセイ集『ふたつの時間、ふたりの自分』(文藝春秋)の中には、次のような記述がある。
《両親の姿を求めて、泥の更地となった町と遺体安置所を探した。両親が見つかったのは、震災から半月が過ぎてからだった。二週間後に母が、三週間後に父が、自宅が押し流された近くから自衛隊員により発見された。
毛布に包まれた遺体の上に、父が愛用していた腕時計がビニール袋に入って置かれていた。日付は十一日のままだった》

『逃亡者は北へ向かう』には、地元の住民が行方不明になった妻子を捜しに遺体安置所を訪れる場面がある。
中の様子がすぐには見えないようにパーティションで区切られた入り口、遺体の情報が記された紙を張った衝立、ブルーシートに包まれた遺体がきれいに並べられた公民館のホール。リアルな描写からは柚月さん自身の経験が透けて見える。
「その場面には、私が実際に見聞きしたことが多く入っているように思います。私自身、ひとりで遺体安置所を訪ねることもあれば、岩手に住む親族に車を出してもらって一緒に行くこともありました。ただ、両親の遺体の確認は私が行いました」
本作に登場する青年・真柴亮は福島県内で殺人を犯し、死刑を覚悟しながらもある目的のために北へ向かう。彼が行き着いた先の架空の町・岩手県宮前市のモデルは、柚月さんの実家があった宮古市だ。
「多くの被災地がある中で、実家があった宮古市は私がいちばん、行き来をした場所です。真柴は東北の沿岸をつたって北へ向かいますが、宮古市をゴールにしたいという思いは当初からありました」

震災後に柚月さんが感じたことや実際に経験したことは、物語が立ち上がる大きなきっかけとなった。
「あの震災の当時は誰もが、“これから先、どうなっていくのだろう”と考えたと思う。個人の人生はもちろん、国や企業も先がまったくわからないような状態でした。小説家ならば“小説を書いて意味があるのだろうか”、ミュージシャンの方ならば“歌うことに意味があるのだろうか”と、多くの方が戸惑いを覚えたと思います。その一方で、戸籍がなくなったことで新しい人生を歩めるのではないか。そう考える人がいるかもしれない、とも思いました。
というのも、被災地を歩く中で、戸籍を扱う公共の組織や機関が消滅して戸籍がたどれない、ということが実際にあることを知ったんです」
実家があった宮古市で、柚月さんは家や両親に関するさまざまな手続きのため何度も市役所へ足を運んでいた。
「震災関連の受付はいつも長蛇の列。職員の方々は一生懸命に対応してくれましたが、その中にはきっとご自身の家族の安否がわからない方もいらっしゃったと思います」
本作には、真柴を追う刑事・陣内康介が行方不明の娘の捜索よりも仕事を優先し、妻の理代子に責められるシーンがある。使命感を持って仕事に向かう陣内にも、妻の苛立ちにも共感できる部分があり、読み手の感情が忙しく動く場面のひとつだ。
「普段、温厚な方が震災後の現実に直面する中で強い言葉を口にすることもあり、後になって“あのときはごめんなさい”と謝られたこともありました。そうした経験を踏まえ、陣内の妻が“自分の娘よりも他人を優先するなんて”と責める気持ちは理解できます。陣内の中には娘を捜したい気持ちがある一方、“自分ひとりが捜すよりも自衛隊などのプロが捜したほうがいいのではないか”という思いがある。
実際の震災の現場には、彼のように感情と現実の狭間で苦しむ人がたくさんいらっしゃいました。ちょっとしたシーンではありますが、特に震災後の被災地にはいろいろな感情や考えを抱えている人がいる、ということが伝わるように書いたつもりです」