「このお金でノウハウを買ったんだ」
改めて思い返せば、自身が開き、閉館に追い込まれた博物館はたくさんあった。そのたびに1000万円以上の損失を出した。それでも、
「このお金でノウハウを買ったんだ」
と信じてピンチを乗り越えてきた。
言葉のコレクターでもある北原には大好きな言葉がある。
「この道を行けばどうなるものか。危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。踏み出せばその一歩が道となる。迷わず行けよ、行けばわかるさ」
アントニオ猪木の座右の銘としても知られる、けだし名言。
今年、喜寿を迎えた北原照久も、この言葉を信じて、波瀾万丈(はらんばんじょう)のコレクター人生をひたむきに歩いてきた。
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北原が東京の中央区京橋で生まれたのは'48年1月30日のことだった。
戦前、喫茶店の前身であるミルクホールを経営していた父は、明治生まれのおしゃれなモダンボーイ。麻のスーツに蝶ネクタイ姿で颯爽(さっそう)とオートバイにまたがる写真が今も残されている。
戦後にいち早く『京橋園』という喫茶店、スキーと登山の専門店『キタハラスポーツ』をオープン。後に貸しビル業やスキーロッジの経営などにも進出するやり手であった。
「凝り性の父は喫茶店の店内に東郷青児などのオブジェを飾り、床の一部をガラス張りにして水槽を埋め込み熱帯魚を泳がすなど斬新なアイデアでたちまち人気を呼びました。どこよりも早くテレビを入れ、黒山の人だかりができたことをよく覚えています」
放送が始まったばかりのテレビに北原も心を奪われた。
「毎日食い入るように見ていたのがアメリカの連続ドラマ。広い庭がある大きな家に住み、家の中はTシャツ・ジーンズ姿で過ごす。キッチンには信じられないくらい大きな冷蔵庫があって、中から大きな牛乳瓶を取り出してイッキ飲み。それがめちゃめちゃカッコよく見えました」
多感な少年時代にアメリカ文化をシャワーのように浴びたことが、コレクター人生の原点なのかもしれない。
コレクターといえばインドア派のオタクを思い浮かべるかもしれないが、北原の場合は違った。運動神経抜群の彼は、カラスが鳴くまで屋外で真っ黒になって遊んだ。
「当時の京橋は空き地がまだたくさん残っていて、廃墟のようなビルを懐中電灯片手に探検。東京駅の枕木の下に隠れ家をつくり、日比谷公園の池ではザリガニ釣りを楽しむ。屋根伝いに明治屋まで行って、忍者気分を味わったこともありました」
しかし朝から晩まで好きなことばかりしていたおかげで、北原の通信簿は、体育以外ほとんどオール「1」。すっかり落ちこぼれていたのである。
中学進学を前に、さすがの北原も焦りを覚えた。