深く頭を下げる様子から、菊之助が吉右衛門さんに抱いていた尊敬の深さと無念の思いが伝わってきた。

「菊之助さんは感情をそれほど表に出さない冷静沈着な方。彼があそこまで取り乱すのは珍しいことです。菊之助さんは吉右衛門さんの芸と人間性に心服していました。だからこそ、実の父を失ったのと同じぐらいの喪失感なのでしょう」歌舞伎関係者)

兄とは対照的な「孤高の役者」

 松竹の宣伝部にいた芸能レポーターの石川敏男氏は、破格のスケールだった吉右衛門さんの芸を惜しむ。

「大きな体格とよく通る声は唯一無二。『勧進帳』で演じた武蔵坊弁慶は当たり役でした。歌舞伎でつちかった芸は'89年からドラマで演じた『鬼平』でも生かされます。実力に知名度が追いつき、播磨屋は揺るぎない存在に。

'06年から初代吉右衛門の俳名を冠した『秀山祭』を開催。定期的に追善公演を行っているのは市川團十郎ら成田屋と尾上菊五郎らの音羽屋のみですから、彼らと肩を並べるほどの名跡になったと認められたことになります」

 歌舞伎界の重鎮に至るまでの道は、決して平坦ではなかった。

「先代の初代・吉右衛門さんは大正から昭和にかけて活躍。当時は六代目尾上菊五郎と人気を二分し“菊吉時代”と呼ばれたほど。一代で播磨屋の名跡を築きましたが、芸を継ぐべき男子は生まれませんでした。

 娘が初代・松本白鸚に嫁ぎ、息子が生まれなかった父のために“男の子が2人生まれたら、1人を養子に出す”と約束します。長男の二代目松本白鸚さんと次男の吉右衛門さんが生まれ、吉右衛門さんは祖父の養子になりました」(松竹関係者)

 違う環境で育った兄弟は、対照的な性格を持つように。

「白鸚さんはおおらかで天然ぎみ。器用なところもあります。吉右衛門さんは、芸一筋の孤高の役者。周囲と距離を置いて思い詰めることもある繊細な気質でした」(同・松竹関係者)

 転機が訪れたのは、吉右衛門さんが17歳のとき。