若さからあどけない姿も見せていた尾崎だが、その勢いはすさまじかった。リハーサルを重ねて迎えた'84年3月、新宿ルイードでデビューライブを行うと、2か月後の5月には初の全国ツアーを開催。ハイエース2台で日本を駆け巡った。
「あのころのハイエースは椅子も直角だし、後ろの荷室はほとんど楽器だった。眠いやつは、楽器の上の数センチの隙間によじ登って寝てました(笑)。尾崎もスタッフも含め、運転はみんなで持ち回りで乗ってましたから、そういう意味では絆は深まりましたね」
江口も「若かったからできた」と振り返る、思い出のツアー。同年8月4日には日比谷野外音楽堂で行われたイベント『アトミック・カフェ』に出演したが、そのステージで、後に“伝説”として語り継がれる事件が起こる。尾崎が、7メートルもの高さの照明台から飛び降りたのだ。
目がイッちゃってたんです
「ツアーではイントレ(足場)によく登っていました。僕のギターソロの間に登って、わざと落ちそうなふりをする。その後、目で合図をしつつ、降りるタイミングを計りながら歌に戻る……という演出だったんです。ただ、あの日は目を見たときに“あ、これはヤバいな”と。目がイッちゃってたんです(笑)。いつもと違う目だと思ったときには、落ちてましたね」
鈍い音とともに、尾崎は苦悶(くもん)の表情に。駆けつけたスタッフに抱えられ、ステージ裏へと消えていった。そんな状況でも演奏は続けられ、観客が心配そうに見守る中、尾崎はスタッフに抱えられながら再登場。後に病院で左足の骨折が判明するが、激痛が走る中、最後はステージに這(は)いつくばりながらも予定されていた楽曲を見事歌い上げた。
「痛いなんてレベルじゃなかったはず。そのときに僕らは彼から、音楽にはどんな激痛やアクシデントをも超えるようなパワーがあることを教わりました。脚から落ちてくれて本当によかったです。下はコンクリートでしたから、頭から落ちていたら即死ですよ」
この“伝説のダイブ”の骨折によりその後のスケジュールは白紙となってしまったが、“不在期間”にも人気はさらに過熱。翌年1月に『卒業』を発売し、3月にはアルバム『回帰線』がオリコンチャート初登場1位に。そして迎えた'85年8月、初の単独野外スタジアムライブとなった大阪球場での公演では、2万6000人を動員した。デビューからわずか1年8か月で臨んだ一大ライブ。尾崎にプレッシャーはなかったのか。
「当然、緊張はしていたと思います。でも“俺、こんなところでライブできるんだ”という喜びの気持ちのほうが大きかったんじゃないかな」
大規模イベントを成功させ、そのまま波に乗るかと思われた尾崎だが、翌'86年1月のライブで無期限活動停止を発表。6月からは半年の間、単身ニューヨークに渡った。帰国後の'87年には活動を再開したが、同年9月、新潟でのライブ直前に彼は倒れ、病院に運ばれることとなった。人知れず苦悩を抱えていた尾崎は、限界を迎えていた。
「売れてくると、周りは“もっと売れてほしい”とか期待をするけど、本人にとっては最大のプレッシャー。それだけ“売れる”というのは大変なことだし、伴う重圧もすさまじいんだなと」
そして同年12月、尾崎は覚醒剤取締法違反で逮捕される。江口たちは、彼のステージから離れることとなった。