嫌々歌ったら……大絶賛!

 役者を目指して高校を中退し、アルバイトをしながら東宝芸能学校に通った。1964年、大映ニューフェイスとして芸能界入りを果たす。

 翌年、歌手に転向し、青春路線でデビューしている。

「途中で歌の道に転向したのはお金のためだったの。歌がヒットすれば、歌謡映画にもなるから、一攫千金を狙ったのね。この道をつかんだのがよかったんだと思う。1年足らずでヒットしちゃったから。でも新人時代は挨拶回りをするたびに、“なんか暗いね、売れないよ”って言われてたのよ。線が細すぎる、個性がなさすぎるって」

 養母にこぼすと、「個性は自分でつくるもので、自然に出てくるものだから、気にしたってしょうがない」とハッパをかけられたという。

「だから鏡見ちゃ、個性、個性……って唱えて。今じゃ個性の塊みたいなもんだけど(笑)」

 大ヒットとなった『柳ヶ瀬ブルース』は、もともと岐阜の繁華街で流しをしていた宇佐英雄さんの曲だった。美川さんは最初、青春路線とはかけ離れたこの曲が嫌でたまらなかったという。

「社長から渡されたソノシートを聴いて練習したんだけど、こぶしが回らなくて、回るのは首だけで。歌詞の意味もわからないもんだから、社長にこれ歌いませんから、断りますと言ったの。そしたら“クビだ!”と怒鳴られて」

 帰宅して養母に報告すると、「あんた、学校も大映も途中で辞めて歌手になったのに、冗談じゃないわよ!」と叱りつけられた。養母は美川さんと一緒に社長の家へ行き、土下座。誠意が伝わり、社長から許しを得た。

【左】2歳のとき養母の家へ【右】小学校入学のとき。当時は親戚だと思っていた実母と
【左】2歳のとき養母の家へ【右】小学校入学のとき。当時は親戚だと思っていた実母と
【写真】本格復帰のきっかけをくれたコロッケと

「でもね、社長にクビだと言われたことが頭に残ってて、あーこの世界って、簡単に人をクビにするんだと思ってね、レコーディングのときに嫌々歌ったんですよ。そしたら、社長や専務らが“この若さでこんなに冷めて歌うのはすごい!”って大絶賛して(笑)」

 キャンペーンで各地を回ると、名古屋を皮切りに全国に人気が連鎖。120万枚の大ヒットとなった。『新潟ブルース』『釧路の夜』とヒット曲が続き、'68年にNHK紅白歌合戦にも初出場を果たす。

「当時は美空ひばりさんや三橋美智也さん、ザ・ピーナッツとすごい方ばかりで。新人枠は2、3人分しかなかった中、よく出させてもらえました」

 新人のとき、2万5000円 だった月給は、1年後に15万円に。『釧路の夜』が出た年には、300万円になっていた。大手が30万~40万円の時代に、小さな事務所だったため、破格だった。

 2人の母には仕事を辞めさせ、生活全般の面倒を見ることにした。

 '71年に出された『お金をちょうだい』は作詞・星野哲郎、作曲・中川博之で作られた曲で、歌い手の候補として美空ひばりさんや菅原洋一さんが挙がっていた。美川さんは自分に歌わせてほしいと直談判し、リリースにこぎつけたという。思い入れの強いその曲を、美川さんが口ずさむ。

「別れる前にお金をちょうだい。あなたの生活にひびかない程度のお金でいいわ~!この曲が決まったとき、これでやっと自分の好きな歌が歌える!と思ったの。和風シャンソンみたいだったから」

大ヒット曲『柳ヶ瀬ブルース』を歌っていたころの美川
大ヒット曲『柳ヶ瀬ブルース』を歌っていたころの美川

 その後、'72年にリリースされた『さそり座の女』は10万枚を超えるヒットとなった。当初B面だったこの曲を美川さんの提案でA面に変えたことも奏功する。

「いいえ私はさそり座の女って、否定から入る歌で、奇抜な感じが気に入ったの。“地獄のはてまでついて行く”がいちばん好き!」

『さそり座の女』以降は、目立ったヒットがなく、スランプの時期が続く。7年連続で出場していたNHK紅白歌合戦も、'75年に落選した。

「デビューから10年間、すごいヒット曲が続いていたから、だんだんヒットが出なくなってくると、自分が許せなくなってくるのね。

 そうすると周りに寄ってくる人がいるのよ。新宿や六本木の遊び人のたまり場に出入りしてたし、危ない出会いもあってね」

 美川さんは'77年10月、大麻取締法違反容疑で逮捕された。同年8月に友人が逮捕されたことを受けて、自ら出頭するが、証拠がなく起訴猶予となった。2回目は、'84年のことだ。

「どんなものかしらって興味があって。またそういう人が近寄ってきたから、ちょうだいって。無防備だったのよ」

 東京拘置所に収監された。2人の母は連れ立って面会に来たという。

「あら、意外に元気そうじゃないって笑ってるのよ。それで“ねぇ金庫にあるお金使っていい?”って。外に出た途端、2人で抱き合って泣いたとは、後から聞いたわ」

 歌手の淡谷のり子さんは東京地裁に美川さんの減刑を求める嘆願書を書いた。

「あなたは歌で希望と勇気を人に与えてきました。そういうお仕事してきたんですよって。これからしっかり立ち直って、歌い続けてくださいねって。淡谷先生の言葉がすごく心に染みて。ああ、なんてことしたんだろうと後悔したわ。でも人間て、きれい事だけじゃ生きていられないじゃない。この失敗を糧にして、前へ進もうと決めたの」

 懲役1年6か月、執行猶予3年の判決が下り、70日間の勾留後、釈放される。

 それから表舞台に戻るまでは試練の連続だった。小さなスナックの10周年のイベントに呼ばれたときのことが蘇る。

「昔は大きなステージで歌ってたのに、今はカウンターとボックス席が2つしかないようなこんな店で歌うのはつらいなって。これが今の私なんだから、しっかり見とこうって。でもこのままじゃ終わんないわよって。いつもそうやってもう1人の私が私に言い聞かせるのよ、叱咤するようにね。それが心のバネになるの」

 営業回りの温泉地では、酔った客から“引っ込めー!”とヤジを飛ばされた。

「浴衣着たお客さんたちでしょ。女の子と一緒に来てお酒飲んでるから、歌なんか全然聴かないのよ。だから“おだまり”って、“静かにおし”って言ったの。そしたら、みんなビックリしちゃって!シーンとなっちゃって。

 そこで生まれたのよ、おだまりが(笑)。それでおだまりって言うと、みんな笑うのよ。もう1回言ってとか言われちゃって。あれも自然の流れの中で出てきたのよね」