誰もがぶち当たる「親の介護と死」。それは女性有名人たちも同じようだ。病老介護を余儀なくされた堀ちえみ、コロナ禍で思うように看取れなかった阿川佐和子ー。葛藤や後悔を語る彼女たちに共通するのは親への感謝と深い愛。ここでは、2014年から6年半、実母の介護生活を送ったタレントの新田恵利さんにインタビュー。報われなさに泣いた日もあったという新田さんだが、大きな悔いを残さず母親を見送れたワケとはーー。
周囲に話してストレス発散
2014年、圧迫骨折をきっかけに歩行困難となった実母の在宅介護が始まったタレントの新田恵利さん。そこから6年半。実兄と協力して看取った介護生活を振り返り、新田さんは“親子ゲンカもたくさんしました”と笑顔で話す。
そこに行きつくまでには、たくさんの苦悩も。介護の現実に戸惑うことも多かった。
「介護が始まる前は、親に介護が必要になっても昼間はデイサービスを利用できるから大丈夫と思っていました。でも、実際は、母が認定された“要介護4”の基準で受け入れてくれる施設が自宅のある地域にはなかったんです」(新田さん、以下同)
医療費控除を受けるための「おむつ使用証明書」1つ用意をするのもひと苦労。それでも、17歳で父を亡くした際に何もできなかった後悔から、「母にはできるだけのことをしたい」と、介護を最優先にした。仕事を終えて帰宅すると、休む間もなく、まずおむつ替え。服薬していることもあり、思った以上にキツい尿のニオイを嗅ぐだけでどっと疲れが増す。どんなに疲れても、炊きたてのご飯と母の好きな料理を用意したが、拒否されると、心も身体も崩れ落ちそうになった。
「“クソババァ!”と何度言い放ったことか。モノに当たって1人でお盆を投げつけ、凹ませてしまったこともありました。言ってしまった後悔で泣きながら食事の片づけをしたことも1度や2度じゃないですよ」
また、兄と2人で介護を担うことは納得していたが、遠方に住む姉に対し“ズルい”と思うこともあった。
「たまに姉家族が来ると、母は大喜び。正直、“いいとこ取りだ”という気持ちもありました。母の好きなお土産を持ってくるんじゃなくて、介護している私たちに持ってきてよってね(笑)。きょうだい間で親の介護を託している人は、介護してくれている人にねぎらいとお土産、もしくは少額でも心づけを渡す気遣いで、わだかまりを減らせると思います」
心境に変化が現れたのは介護生活が3年目に入るころ。介護が生活の一部になって、いい意味で手の抜き方、気の抜き方がわかってきた。
疲労困憊のときは、おむつが汚れていても交換を少し待ってもらったり、買ってきた惣菜を温めて夕食に並べたこともある。
「母に“ごめんね”と言うと、“平気よ”と返してくれました。介護する側の大変さを知ってもらって、介護する側もされる側も少し譲り合い、我慢し合うことが介護には大切だとわかりました」
ストレスがたまって爆発する前に、ブログで介護の愚痴を綴ったり、介護仲間とランチをしてお互いの苦労を共有するなど、上手に“ガス抜き”する方法も身を助けた。
「日々のストレスを言葉で吐き出すことは大切。“言いふらし介護”で、またやさしい気持ちを持って母に向き合えました」
また、親のためではなく、“自分が後悔をしないための介護”だと思えるようになったことも在宅介護を続けられた理由の1つだと話す。
「結果として、“できるだけ家にいたい”という母の希望を最期まで叶えられたという自負が、大きな悔いを残さず見送れたことにつながっていると感じています。死に装束には、母の希望で私がウエディングドレス風の衣装を作りました。ただ、母に完成したドレスを見せられなかった。そこだけは後悔が残っています。でも、きっと喜んでくれているんじゃないかな」
1985年に「おニャン子クラブ」のメンバーとしてデビュー。タレント、女優業の傍ら、自身の経験を基に、介護についての講演も行う。著書『悔いなし介護』(主婦の友社)では、6年半の介護生活を赤裸々に綴った。