これを悔やみ続けていた人がいて
「7、8年前に高校の同窓会があり、当時の担任の先生が声をかけてくれました。“活躍は見ているよ。実は本当に悔いていることがあって、僕はあのとき早退を許可しなかったよね。あれがずっと心に残っていたんだ。本当にすまないことをした”と。でも僕は“先生、大丈夫です。あの日欠席して(コンテストに)行っちゃいましたから!”って(笑)。 先生も笑って許してくださいました」
しかし、プロになることを目指してはいなかった。
「僕はとにかく音楽が大好きで、当時も今もそれは変わりません。プロとアマチュアの違いは“お金を稼ぐかどうか”ですが、家が病院だったので“俺くらいは養えるだろう”って(笑)。でも、“実家で生活するからには何か手伝わないと”という感じで、バイト代わりに両親が近所に往診に行く車の運転手をしていました。とにかく暇があれば色んなバンドに参加しながら、いつのまにかプロになっていた感じです」
根本がデビューしたのは、実はスターダスト☆レビューが初めてではない。
「大学のころも、あちこちのバンドで歌っていました。ある日、ライブが終わって家に帰ると、音楽プロデューサーを名乗る男性から“君、歌ってたバンドの子だよね?”と電話があったんです。でも、当時のバンドでは僕はリードボーカルではなく、セカンドボーカルだったので、その方に“僕じゃない方では?”と答えました。すると、“背の小さいほう”と言われたので“それなら僕です”となって(笑) 。そして“映画をやるんだけど、曲を書いてみないか”と言われました。それが『がんばれ!!タブチくん!!』という映画だったんです」
そして、映画のための架空のバンド『クレイジー・パーティー』で、曲だけでなくシンガーとしてデビューを果たす。
「その映画が第3弾まであり、第3弾の曲を作ったのが大瀧詠一さんでした。大瀧さんとは、そこから10年後くらいに初めてお会いすることができたのですが、当時の曲が収録された大瀧さんのアルバムでは“ずいぶん声の高い人だなと思ったけど、実はこのボーカリストは『スターダスト☆レビュー』の根本要くん”と僕のことも紹介してくださいました」
スターダスト☆レビューとしてのデビュー
「まだアイドル全盛の'81年にデビューしました。でも“プロ”という気持ちはまったく持てませんでした。だって、全然売れなかったですからね(笑)。当時の給料は8万円なのに家賃が7万2千円でしたから、両親からの仕送りで生活をしていました」
両親のおかげもあり、お金に困ることはなかった。
「アルバイトもしたことがないんです。ただ、プロになる前にお世話になっていた楽器屋さんがあって、突然バイト代をいただいたことがありました。いつも楽器を弾かせてもらっていたので、お店にお客さんが来たらとりあえず僕が対応していたのですが、“今月よくやってくれたから、バイト代払うよ”と。最初は断ったのですが、結局それを頭金にして、その店で僕が欲しかったギターを買わせてもらったんです」
その後プロになり、売れないながらも好きな音楽をやれることに幸せを感じていたが、なかなか結果に繋がらず……。
「僕らのデビュー曲『シュガーはお年頃』の期待が大きかったのでしょうね。特殊な音楽感を持ってましたから。でも全然売れない。それでもスタッフは僕らを信じて懸命にプロモーションしてくれる。それでも“売れない”。情けないバンドだと思っていました。デビュー当時から、“スタッフを安心させるために売れたい”という気持ちはありましたね。それでも、売れないんです、本当に(笑)」
“売れていない”ようには見えないけれど……。
「たしかに、アルバムはチャート2位に2度入ったことがありましたが、シングル曲でベストテンに入った曲はない。ライブは結構話題になっていたから武道館3日間とかもやりましたが、埋まったことはなかったですね。'87年に初めて武道館をやったのですが8割くらいの集客で、そのくらい入るなら2日間やろうって。その調子で結局3日間。スタッフは“スタ☆レビはライブで大きくしよう”と言い続けて頑張ってくれていたから、はた目には売れているように見えたかもしれません(笑)」