上京、ダンスの頂点へ
高校卒業後、学業も続けることを前提に東海大学に進学。家賃3万円、4畳半ひと間の風呂なしのボロアパートに住み、バイトは必要最低限しかしないと決めた。
「できる限りの時間とお金をダンスに使いたかったんです。大学の授業が終わって、キャンパスが閉まると、東海大学駅前の広場に移動して毎日8時間練習してました。
移動に使う交通費やダンスの衣装代も捻出しなきゃいけないから、仕送りのお米とふりかけで1週間しのいだことも。定番は学食の150円のうどん。大学の近くにある山加食堂のナス味噌定食680円がご馳走でした」
遊びたいと思う暇もない。ダンスのためだけの生活だ。
「ストリートダンスの本場の空気を感じたい」と、初めてダンス留学したのはロサンゼルス。19歳だった。そのころ、ダンスの中心はニューヨークからロサンゼルスに移り、世界中からダンサーが集まり、盛り上がっていた。
「バイトして生活を切り詰めて練習の日々。お金が貯まったら長期休みのたびにLAに行きました。お金も時間も全然足りなかった。でも一度も、つらいとかやめたいと思ったことがない。ダンスがあれば今でもあのオンボロアパートに戻れると思います(笑)」
踊れば踊るほどダンスの魅力にとりつかれた。ダンス大会に初めて出たのは高校2年生のとき。福岡の大会で準優勝、大阪で開催された高校生の日本一を決める大会でも優勝していた。
それまでは大会やダンスバトルに出て結果を残すことにチャレンジしていたが、アメリカのエンターテイメントの世界や、あらゆるスタイルのダンスにも興味を持った。挑戦すれば実力はつき、ダンスの幅が広がる。ネットワークも増えていき、可能性が無限大に広がる手応えがあった。
2006年、21歳のときには、国内最大級のダンスバトル大会で優勝、1か月後には世界最大級バトルイベントでも日本一、ダンスコンテストの最高峰でも特別賞。日本では向かうところ敵なしとなる。
翌年、ストリートダンスの唯一の大会で日本一になると、その後、世界に10数名しかいない「キャンベル・ロックファミリー」のメンバーに認定された。ストリートダンス創始者から後継者として正式に認められたのだ。
その称号をもらったとき、創設者の1人、グレッグからの言葉をKENZOは今も胸に刻んでいる。
「ダンスの技術を伝えていくだけじゃなく、歴史も含めたカルチャーや、ダンスというものの身体表現自体を伝えていってほしい。KENZOのダンスには愛がある。君なら、きっと世界をつなげてくれる」
その後、世界中からゲストショーやダンス指導のオファーが殺到するようになった。
大学卒業後、目標としていた「ダンスを仕事にする」ことができるようになり、反対していた父親も認めてくれた。
インストラクターとして教えていた生徒はどんどん増えて300人を超える数になった。その合間を縫って海外でのショーやダンス指導にも足を運ぶ。審査員、アーティストのバックダンサーや振り付けなど、ダンスに関わる仕事はなんでも受けた。ダンスに明け暮れる充実した毎日─。
それでも、ある大きな疑問がずっと胸につかえていた。
「世界大会優勝は目標の1つでしたし通過点だと思っていました。僕が初めて世界一になったとき、ちょうどオリンピックをやっていたんです。金メダルをとった選手たちはメディアに取り上げられ、全国民に拍手を受けている。そして、生涯、金メダル選手として生きていくことができる。
でも、一方でダンスで世界一になっても生活は大きく変わらない。ダンサーには認知されても、社会的価値はほぼないに等しい。ダンスを頑張ってる後輩や子どもたちに、頑張ればすてきな景色が広がるんだよって言えるようにしたかった。ダンスの社会的価値を上げたい、何かを伝える存在になりたいという思いを持つようになりました」
DA PUMPにと声をかけられたとき、その突破口が見つかったような気がした。
「DA PUMPは、ストリートダンスを愛するグループで、ストリートダンスをメジャーに広げてくれた。僕もDA PUMPとして何かできるんじゃないか。そして、ISSAさんの力を貸してくれというひと言が僕を後押ししてくれ、加入を決めました」