波瀾万丈のフジテレビ局アナ時代

 笠井さんが志したのは喜怒哀楽を表現できるアナウンサーだった。入社早々、個性は発揮された。2期先輩になる前出の軽部さんは、こう話す。

「アナウンサーには、自分から前に出たがるのはカッコ悪いという美学みたいなものがあるんですが、笠井は新人のときから『1秒でも長くテレビに映りたい』と公言してはばからなかった。

 これは彼の名言ですよ。それを言っても許されたところは、笠井の人徳じゃないですかね」

 入社した'87年はバラエティー全盛期。不動の人気番組だった『オレたちひょうきん族』に出られて浮かれていると、テレビ東京に入社して報道記者になっていたますみさんから手綱を引っ張られた。

「番組の人気を自分の人気だと勘違いするなと。あのときの助言があったから、僕はアナウンサーとしていちばんやりたかったワイドショーに舵(かじ)を切ることができたんです」

 午後の情報番組でリポーターとして笠井さんは持ち味を発揮。難しい内容もわかりやすく伝える力が評価される一方で、よく「噛む」ことでも笠井さんは有名になった。

「後輩たちからも『また噛んでましたね』ってからかわれるくらい、よく噛むんです。悔しいから、噛んでも伝わるのは『噛み技だ』って(笑)」

 入社4年目の'90年6月、笠井さんはますみさんと結婚。'94年には長男を授かると、ますみさんの希望で出産にも立ち会った。これが大きなニュースに。イクメンの先駆けとなった笠井さんは『ボクの出産日記』という本を書き、マタニティー雑誌の表紙も飾った。

 '98年に次男が、'03年には三男が誕生。子育てには全力で関わった。長男の小学校の保護者会には毎回のように出席。PTAの会長にも推薦された。児童の父親たちを集めて「マイダディの会」を結成し、子ども会の準備などにも積極的に参加した。

 息子たちには「お父さんに用があればいつ電話してもOK」と約束をした。本番直前にしばしば携帯電話が鳴る。出ると、「牛乳買ってきて」。そんな会話も大切にした。まだ笠井さんは、ダメな夫でも、ダメな父親でもなかった。

結婚披露宴では、お色直しの入場を笠井さん自らが実況しながら行ったそう
結婚披露宴では、お色直しの入場を笠井さん自らが実況しながら行ったそう

 アナウンサーとしての人生には紆余(うよ)曲折があった。ワイドショーで揉(も)まれた笠井さんは、'96年4月に情報番組キャスターに抜擢(ばってき)された。

 ところが、視聴率が伸びず、半年でキャスター交代。メインを降ろされた番組に「リポーターとして残れ」と言われたことに納得できず、幹部と衝突。

「このときも妻に相談したんです。そしたら、『やりたくないなら、少し休みなさいよ』と言ってくれた。

 それで番組に残ることを断固拒否したら幹部がキレちゃって、『オレの目の黒いうちは絶対におまえを使わん!』って、情報番組を全部降ろされたんです」

 人生、マイナスもあればプラスもある。情報番組を干された直後、報道番組から声がかかった。現場取材の技量が見込まれ、夕方のニュース番組『FNNスーパータイム』でリポーターを任される。

 12月17日、ペルーで日本大使公邸占拠事件が起こると、すかさず現地へ。約600人が人質となる緊迫した状況で犯人側と接触し、インタビューするというスクープをモノにした。

 身体を張った仕事ぶりは局内でも高く評価され始め、笠井さんに帰国命令が出る。

「まだ事件は解決していません、取材を続けます」と言う笠井さんに報道番組の幹部は言った。

「スーパータイムは3月いっぱいで終わる。次の番組はおまえがメインキャスターだ」

 '97年4月にフジテレビはお台場の新社屋に移転することが決まっていた。新番組の『FNNニュース555ザ・ヒューマン』は、これまでのニュース番組の手法に縛られない斬新さが目玉。新生フジテレビの象徴として総力を挙げて企画された報道番組のメインキャスターへの大抜擢。さすがに戸惑った。

「多くの先輩アナを差し置いて、報道の経験も浅い30代半ばの自分がメインなんて、普通に考えれば無理ですよ。ニュースもよく噛むし(笑)。そしたら、僕のために3年用意していると言われたんです。3年でいっぱしの報道キャスターになってくれ、と」

 笠井さんは、自らも現場に飛び出す新しい報道キャスターとして全力で大役を務めた。しかし、新しさに視聴者はついてこなかった。番組への評価は低調。辛口で知られる批評家のナンシー関さんからは、連載コラム『テレビ消灯時間』にこう書かれた。

 《すでに半年以上経つというのに笠井メインキャスターに安定感のかけらも見られない。不思議なくらい地に足がついていないのである》(『週刊文春』'98年2月5日号)

「大ショックでしたよ。ところが妻に言われたんです。『信ちゃんの仕事がナンシー関さんの目に留まって、コラムに取り上げられたんだから、これはスゴイことだよ』って」

『ザ・ヒューマン』は1年で終了した。だが、ますみさんが感じたように、笠井さんの存在感や発信力は大きくなっていた。その力に期待したのは一度は見限られた情報番組。

「リニューアルする『おはよう!ナイスデイ』に来てくれ。メイン司会だ」

 プロデューサーに請われ、朝の情報番組に笠井さんは登板。しかし、視聴率は伸びず、またしても1年で終了した。