面白いよりも視聴者「受け」が重視

『M-1』は話題性の高さだけではなく、あくまでテレビバラエティでもあることから、年々コンプラへの意識が強くなってきた。おもしろさの「ウケ」よりも、幅広い視聴者に受け入れられるかどうかの「受け」が重視されるようになっているのだ。準々決勝の審査はその門番として篩(ふるい)に掛ける役割と化しているのかもしれない。

 準々決勝敗退者のなかであれば、荒い言葉遣いを操った金属バット、下ネタで攻めまくったゆにばーすが、ウケとは別の力が働いたように思えた。一方で、シシガシラはいつも時代の流れに反したド直球の容姿いじりで笑わせてきたが、準々決勝ではそれを封印。彼らのネタを知るファンにとってはモヤモヤが残った。これは「受け」を意識したネタのチョイスだったのではないだろうか。しかし、いつもの切れ味が影を潜めて敗れ去った。

 準々決勝を観る限り、ゆにばーすは過度だったかもしれないが、それでも毒性のある題材が良しとされず、テレビなど映像コンテンツ向きのネタが重視されるとなると、これから開催される準決勝でも、「おもしろい」けれど丸くおさまっていて刺激に事欠くものになりかねない。「ウケ」より「受け」に根ざした笑いへと舵を切るあまり、その芸人の持ち味が失われてしまわないだろうか。

 準決勝の通過基準は、決勝=テレビに向いているか否かという印象になりかねない。『M-1』が定義する「おもしろい」とはどういうことなのか、それが問われている。