その「伝説性」に上乗せされるブーム生成要因は「圧倒的歌唱力」だ。先の特別番組を見て圧倒されるのは、彼女の「生歌」のすばらしさである。あらためて、つくづくうまいと驚かされる。

 特に中域音程の伸びがすばらしい。よく物まねされる『DESIRE -情熱-』(1986年)の「♪burning 【loveーー】」はその典型だが、その他にも『北ウイング』(1984年)冒頭の「♪不思議な力【でーー】」や、『十戒(1984)』(同年)のサビ「♪イライラする【わーー】」などには、正直惚れ惚れする。

 あと、先のBS-TBSの特別番組で驚いたのは、どんな状況でもベストのパフォーマンスを見せている点。1984年8月23日オンエアの『ザ・ベストテン』において、何と新幹線の車中(!)から『十戒(1984)』を歌うのだが、そんな過酷な状況でも、見事な歌を披露していた。

 さらなるブーム生成要因としては「独自の世界観」も指摘できよう。「都市生活者の陰鬱な疲労感」とでも言うべき、独自の中森明菜ワールド。

 驚くべきは、彼女がチャートを席巻した80年代のシングル25曲(12インチシングルの『赤い鳥逃げた』、カセットテープ限定シングル『ノンフィクション エクスタシー』含む)のキーはすべてが短調(マイナー)なのだ。シングルのほとんどが長調(メジャー)だった松田聖子とは、この点が決定的に異なる。

「70年代の山口百恵の後継」と位置付けられることが多い中森明菜だが、その都会的で陰鬱な感じは、音楽評論家・渋谷陽一が「自己を都市と現代の被害者として組織し得た」(『音楽が終った後に』-ロッキング・オン-)と評した70年代の沢田研二に近い気もするのだ。

中森明菜の「プロデュース力」

 と、「令和4年の中森明菜ブーム」の生成要因をいろいろ考えてきたが、ブームの中で拡散されたいくつかの周辺情報に触れて、私は、さらに驚愕したのである。その求道的な音楽家としての側面に。

 まずは「プロデュース力」。比較的有名なのは、先の『北ウイング』について、作詞家(康珍化)・作曲家(林哲司)を、まだ18歳だった中森明菜本人が指定し、さらには「北ウイング」というタイトルも彼女が決めたというエピソードである。

 林哲司は語る――「最初は『ミッドナイトフライト』だったのですが、明菜さんの『北ウイングにしたい!』そのひと言で変わりました。今にして思うと的を射たタイトルだと思いますね」(NHKラジオ『読むらじる。』2022年2月4日)