'90年代は音楽漬けで爆走し続けた

 それでも大黒は、音楽漬けの毎日が幸せだったと言う。

私はバックコーラス上がりで、会社がどうしても欲しいと手を伸ばして買ってくれた姫じゃない。叩き上げだから、いつこの日常を奪われるかわからない、という恐怖がある。

 音楽がやりたいのに、食べるために仕方なくスーパーの品出し、交通整理や夜中のバイトをやったりしながらやっと掴んだんだ毎日だから。いいですよ、365日でもやらしてくださいよって。ハングリー精神なんかじゃない、ハングリーそのものだったの、私は」

 自分が爆発的に有名になっていることを知ったのもひょんなことからだった。

実家の母親から“マキちゃん、雑誌に写真載ってるよ”って電話が来て。調べたら同級生に私の子どものころの写真をスクープ雑誌に売った子がいたの(笑)。子ども時代の金太郎カットみたいなガッカリするような写真(笑)。

 その見出しに『あの謎の大黒摩季の秘蔵写真をゲット!』って。その記事を見たときに、“え? 私って謎だったんだ”(笑)と知ったんですよ」

 そうして彼女は、'90年代を爆走したのだった。

47都道府県を巡るツアー。「コレまでにないベストコンディションで歌えている」と大黒は話す
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【写真】「自分の限界が見えた」と語る大黒摩季さん

“秘密の部屋”は音楽への扉だった

 大黒摩季(本名「摩紀」)は、北海道札幌市で生まれ育った。実家は、パン工場を営んでいた。祖父は、銀座の木村屋の暖簾分けをしてもらい、『札幌キムラヤ』を開業。祖父、父親、弟と3代続き、まもなく創業100年を迎える、札幌では最も古いパン工場である。摩紀が誕生して2年後、長男となる弟が生まれた。

「物心ついたらプリンスが出てきちゃったんですね。弟は跡継ぎだから、一族郎党挙げて大フィーバー。みんな興味の対象はいつも弟だった」

 摩紀は幼いころから、癇(かん)が強いけど協調性のない、マイペースの子だった。何も言わずにすぐいなくなる。

「興味を持ったら突っ走るみたいな。とにかくよく失踪してて、いつも捜索され続けていたみたい(苦笑)」

 摩紀が3歳の時、誕生日のプレゼントにアップライトのピアノを買ってもらった。

「それまでリカちゃん人形ひとつ買ってもらえなかったんだけど、母が東京のOL時代、ヴァン・クライバーンというピアニストのコンサートでショパンの英雄ポロネーズを聴いて、“いつかお母さんになったら娘にピアノでも習わせて、毎週聴けたらいいなあ”と思っていたみたい。

 で、その夢を私に託して、母がパンの配達のついでにピアノの先生の家まで送ってくれて、終わったら迎えに来る、という感じで通いました

 それが音楽との出会いだった。そして5歳の時――。

うちのお父さんがお金を貸した人が逃げちゃった。それでその人の家に行って持って帰れるものはないかと探したら、レコードしかなかった。

 その人がロックファンで、レッド・ツェッペリン、ディープパープル、クリームとか70年代ロックのレコードを、よくわからないままお父さんが持ってきて棚に入れてたんです