現場の声で制度は変えられる

 その後、早川さんは、大学時代に出向いた実習先施設の担当者に連絡をした。“いつでも相談を”と言われていたのだ。すると「来年度、採用枠を作るから来てほしい」と言われ、転職先が決定。そこは東京の山の手にある児童養護施設だった。

「そこでは何でも会議で話し合い、新人でも思ったことは言える、民主的に運営している施設でした。労働組合もあって、働く環境や雇用条件の相談もできた。

 当時、ほとんどの施設で“女性は結婚したら辞めるのが当たり前”という風潮でしたが、結婚しても子どもができても働き続けられるよう、長時間労働を見直し交代制勤務に変えていた。労働基準法で定められた8時間労働が守られていましたね。そんな施設はひと握りでした」

 以前にいた施設では、ひどい扱いに耐えかね逃げ出す子どもが絶えなかった。

「私が担当したフロアでは、7人いる子どものうち、3人が脱走していました。この施設ではそんな子どもは皆無です。まるで北朝鮮からアメリカに来たみたい(笑)。ここでは16年、勤務しました」

 早川さんは入って早々に、労働組合の幹部に推薦された。労組での活動を通して、「現場から声を上げることの重要性」を実感する。

「ほとんどの人が労働法に関する知識がない中で、私は多少の知識を持ち合わせていたんです。それで執行部に入るよう誘われ、入職3年目で委員長にさせられてしまった」

 委員長になると組合員の先頭に立ち、法人の理事長と交渉することになる。当時の理事長は全国の社会福祉法人の経営者協議会の会長。ドンと呼ばれていた切れ者だった。

「その人と対面で、つい最近入った20代の若造が法律の話を持ち出して、ああだこうだとやり合うわけです」

 当時は、石原慎太郎都政の時代。福祉予算の大幅削減が始まったころだった。早川さんはリストラを言い渡された組合員たちを救うために、会計の本を読みあさり、団体交渉に臨んだ。そのかいあって、組合の要求どおりにリストラは撤回されたのだった。

 執行委員長を4年ほど務め、たび重なる職員への圧迫を退けた後、東京の組合に設置された児童養護協議会の議長に就任。

「議長の経験もすごく大きかった。大半の施設では、制度は上から降ってくるものだという感覚だと思うんだけど、制度は施設や職員といった現場が声を上げることで、変えられるんだと知りました」

 そこで早川さんが実感したのは、社会的養護が置き去りにされている現実だった。

「例えば障害者の親の会とか、保育園の父母会連合などでは家族が組織化されていて、当事者の代弁者として国や行政に訴えかけています。その運動の成果で、制度が変わってきた歴史があるんです。児童養護で決定的に欠けているのが、この部分。現場から声を上げなければ、現場の実情に応じた変化は起こりません」