長年支えられ、存在感を示す『笑点』

 長い落語家生活を支えた要素のひとつに、日本テレビ系の長寿演芸番組『笑点』の存在がある。

 好楽の次女で、東京・雑司ヶ谷の鬼子母神前で甘味処『ひなの郷』を経営する吉田つぎ子さん(48)は「『笑点』がなかったら、私たち、生きていけなかった」と明かすが、1979年、33歳のときに林家九蔵として出演し始めた『笑点』を、1983年に一度降板になったことがある。

「三波伸介さんが司会をしていたころですね。確かキャッチフレーズは“下町の玉三郎”だったかな。今も、見えを切ったりするのは、そのころの名残です」

 そう証言するのは、テレビ番組制作会社『ユニオン映画株式会社』のエグゼクティブプロデューサーで1982年から『笑点』のプロデューサーを務める飯田達哉さん(71)だ。

「誰とでも大丈夫だから楽屋が個室なら、山田(隆夫)くんと桂宮治くんと一緒になってもらってます。私に対する態度も若手ADに対する態度も一緒。まったく裏表がない」と好楽の人柄をたたえる。

華燭の典で。あいさつをするのは、仲人を務めてくれた林家正蔵師匠
華燭の典で。あいさつをするのは、仲人を務めてくれた林家正蔵師匠
【写真】好楽ファミリー他、とみ子夫人の前で子どものようにはしゃぐ三遊亭好楽

 好楽は前名の林家九蔵として1981年に真打ち昇進。その翌年、正蔵さんが亡くなった。

 前座・二つ目時分に師匠が亡くなれば、新たな師匠に身を寄せ真打ちに昇進するのが落語の世界。真打ちに昇進していればその必要はなく、師匠なしで活動を続けることができる。

 しかし九蔵は1年間喪に服した後、三遊亭円楽さんに弟子入りを願い出る。所属する落語協会から五代目円楽一門会(当時は大日本落語すみれ会)に移籍したのである。

 落語協会所属であれば、都内の定席(浅草演芸ホール、池袋演芸場、上野鈴本演芸場、新宿末廣亭)に出演できるが、円楽一門はそこから締め出されていた。好楽の移籍は「大企業から町工場へ行くようなもの」と仲間内に揶揄された。

 さらに降りかかったのは、移籍直後の『笑点』降板劇。「腐ったとか、そういうことはない。降ろされたのは不徳の至りだからしょうがない」と割り切った好楽だったが、強運が離れることはなかった。

 1988年4月に番組復帰。司会の五代目円楽さんが、好楽の自宅へわざわざ足を運び(好楽は不在。とみ子夫人が応対)、直談判し、復帰への道筋をこしらえた。師匠のわざわざの来訪に、もどれるか!と決めていた好楽も態度を改めた。

 回答者を一度降りて、復帰した落語家はこれまで2人。1人は五代目円楽さんだが、司会者として復帰した。再び回答者として復帰できたのは好楽ただ1人。強すぎる運だ。
『笑点』で好楽に助けられていると、昨年新メンバーに加入した桂宮治(46)はありがたみを実感する。

私が緊張していると、小声でやさしく話しかけてくれる。隣で寄り添ってくれるから、私が生意気な掛け合いができる」と“チームマカロン”に感謝。「チャーシューやスイカ、メロンなど子どもたちに送ってくれるし、好楽師匠のお孫さんからは、『じーじを頼みます』と手紙をもらいます」

 一緒に地方公演に行った際のエピソードが、人を短時間で虜にする好楽師匠を物語る。

「ホテルのロビーに2人でいたら、『好楽師匠!』と呼びかける人がいる。師匠は全国各地にお客さんがいますから、仲のいい人なんだなと思っていたら、『さっき、朝食で隣になったんだよ』って。岡山の人で、今度近くに行ったらごはんを食べる約束をしていた。その約束をちゃんと守るのが好楽師匠なんです」

 司会を務める春風亭昇太(63)は、最近の好楽を「存在としてキャラが立っている」とたたえる。「一番ナチュラルな人。素の部分が見えて、リアルな感じがしている。作らない人。(やりとりは)楽じゃないですけど、流れとか一切考えていないことで番組を予定調和にしない。そのあたりが際立っていますね」と、たくらみのない姿勢に共感を示す。

 裏表がないと同時に「足をすくわれる心配がない」(前出・飯田さん)という安堵感を発信する好楽の人柄。50年来の付き合いという「三遊亭好楽後援会会長」の米谷靖夫さん(82)は、「よく言えばざっくばらん、悪く言えばチャランポラン」と、短いフレーズで好楽の飾らなさを端的に表現する。「お弟子さんが全員真打ちになるまで、師匠としての役目を果たしてほしいですね」と期待を寄せる。