正義感に燃えていた学生時代

“すごい可愛い子”と評判だった高校時代。本人いわく「話さなければ、と周りは言ってましたけど(笑)」
“すごい可愛い子”と評判だった高校時代。本人いわく「話さなければ、と周りは言ってましたけど(笑)」
【写真】「すごい可愛い子」と評判だった高校時代のあべ静江

私、正義感に燃えていたんです(笑)。中学時代、暴れん坊のクラスメートがいてね。彼がほかの男子に暴行するのを止めるため、私が彼を平手打ちしたんです。でも、手をあげたことはいけないことなので、翌朝謝りに行ったの。そしたら“誰も僕には注意せえへん……ありがとう”と逆に感謝されました

 高校時代は弁論部に所属し、熱弁をふるった。

「東海地区の弁論大会に出たときのこと。当時は学生運動が盛んで、若者が意見を主張し合う空気がありました。私が壇上で話し始めると、他校の生徒からガンガンやじを飛ばされて。私はそれにいちいち反論していたら、時間オーバーに。まだ原稿を話し終えていなかったので、しゃべり続けていると、係の人に両腕を抱えられて強制退場(笑)。悔しくて、退場しながらもしゃべっていました」

 当時のあべをよく知るのが高校の後輩、坂忠文さん。

「あべさんが高田高校に入学したときは、“すごい可愛い子が入ってきたよ”と高田中学3年生の私の耳にも伝わってきました。中学校と高校が同じ敷地内にあったので、毎朝あべさんの登校の様子をチェックして報告してくれる友人がいて、私も一緒に見に行ったものです。光り輝くマドンナのような存在でした」

 坂さんは高校に進学すると弁論部に入る。憧れのマドンナは、厳しい先輩になった。

「あべさんは部長で、弁論も上手でした。歯切れよく、滑舌もいい。三重県は関西なまりがあるので、アクセントをチェックされたり、後輩の僕らは指導を受けました。

 あべさんは誰に対してもハッキリものを言う人。叱るときは“坂君、これはダメでしょ。ちゃんとこうしなさい”みたいな言い方で、決して乱暴な言葉は使わなかった。怖い先生に対しても、校則について堂々と意見していましたね。でも、その先生とも仲良しになっちゃう。リーダーシップがあって目立つけれど、敵がいないタイプでした」

人気DJから歌手へ、人生の扉が開く

 高校卒業後は名古屋の短大に入学。同時に夜はタレント養成所『TTC』に通う。

「お芝居の勉強をしないまま子役をしていたから、きちんと習いたいと思ったのです。でも、TTCはどちらかというとプロのしゃべり手を育てる学校だったの。よく調べないで受験した私のミスですが、授業内容が多彩で面白かった。

 日本語の基本、パントマイム、日舞、洋舞……。それに狂言の授業は和泉元彌さんのお父さま、和泉元秀さんが講師で、着物が着崩れしない所作や舞台の八方向に届く発声などを教わりました。TTCで学んだことは、後の私の芸能活動の礎になっている気がします」

 TTCの1年間の授業を終え、名古屋タレントビューローに所属。ここからあべの人生は大きく開けていく。ラジオのDJの仕事が舞い込んだのだ。

 東海ラジオの『ヤングランド』、FM愛知の『You & Me東芝』がスタート。多くの若者の注目を集め、あべは人気を博す。美貌と美声を併せ持つDJに、やがて音楽業界が目をつける。

「ラジオ番組の中で私が歌ったテープが出回り、いろんな芸能プロダクションから声をかけていただいて。フォークのチューリップ、長谷川きよしさんなどが所属していたシンコーミュージックを選びました」

 こうして歌手、あべ静江が誕生。21歳。10代のアイドルがひしめく当時の歌謡界では遅いデビューだった。清楚で知的な容姿、しっとりと落ち着いた歌声、アイドルとは一線を画する魅力で、デビュー曲『コーヒーショップで』は大ヒット。年末の日本レコード大賞新人賞5人の中に選ばれた。ちなみに、山口百恵さんさえ新人賞に漏れるという大激戦の年だった。

 お茶の間で家族そろって歌番組を見ていた歌謡曲の全盛期でもある。歌番組の数も多く、売れっ子歌手はみな、寝る間もないほど忙しかった。

「デビューして2、3年は、すさまじいハードスケジュールでしたね。睡眠は3時間とれればいいほう。だから移動中や隙間時間に寝ていました。エレベーターに乗ったら、1階から11階に着くほんの少しの間に立ったまま寝て、夢まで見ました(笑)」

 当時の話をしながら、「あのころって21歳……いやだ、今の三分の一以下の年齢よね」と笑いながら、こう続けた。

「経験はまだ浅いのに、学校を出たてで頭でっかち。一番“我”が出る年頃でしたね」