事件から数年後、照江さんのもとに獄中のI田から詫び状が届いたという。
「手紙には“弁護人から犯行動機を食べ物の恨みと言えば減刑されると聞いて嘘の供述をした。申し訳なかった”と、書かれていました。しかし報道で“食べ物の恨み”と散々書かれたことで、世間からは“住み込み人に食べ物を与えず恨まれて、殺された人の子”として、無視されたりいじめに遭いました」
真相が伝えられなかった要因
誤った情報はこれだけにとどまらないようだ。
「I田は“片岡宅の廊下に落ちてあった薪割りの斧につまずいたのが犯行のきっかけにつながった”と供述したとされていますが、凶器はマサカリ状の薪割りで、それも当時近所に住んでいた警察関係者の家にあったもの。そして父と母もI田を内弟子としてわが子のようにかわいがっていたことを記憶しています。ここまで間違った情報が広まったのは、犯人の供述ばかりが新聞で取り上げられ、事件を担当した警察官が第一発見者の祖母に“事件当時、一緒に住んでいない人の話は聞く必要がない”と、ほとんど聞き取り調査をしなかったことが大きいと思います」
当時、歌舞伎の興行主である松竹や役者仲間も、十二代目の人柄を警察に証言するなどフォローしたが、汚名を晴らすには至らなかった。
「現在でも過去の報道を引用して事件が語られていますから、発端が“食べ物の恨み”という嘘は覆せていません。父・十二代目仁左衛門の功績も忘れられつつあるのが悲しい限りです。何度かテレビで事件の再現ドラマが放送されましたが、一度も娘である私に事前の相談や連絡などはありませんでした。私が事件の遺族と知る人もいないのでしょうね。I田から届いた犯行動機を明かした詫び状も、新聞記者に事件の資料として貸したあと返却されずじまい。今となっては新事実を示す証拠も残っていません」
現在80歳の照江さんは、長唄日吉会に所属し、日吉小都女の名義で、娘の小左都さんと共に活動している。
「自宅に飾っているお雛様は、私が生まれた'42年に作られたものです。事件当日も3月だったので飾っていたので、雛壇に被害者の血痕が残っているんです。今でも“この人形たちが証言してくれたらな”って考えてしまいます……」
時間がたっても、誤った情報が残る限り、遺族の悲しみは消えることはない。