伝説の娼婦・ハマのメリーさんに導かれて
'91年5月、横浜開港記念みなと祭が行われ、五大さんは仮装行列の審査委員として出席していた。ふと目をやった先に腰をかがめて立つ高齢の女性がいた。手には大きなキャリーバッグ。顔はまっ白に厚く塗られ、目元は太く黒いアイラインが引かれている。赤い口紅。白いレースのワンピースは低いヒールを履いた足首まであった。
見ていると、その女性と目が合った。何も言わないが、胸元をつかまれ、こう問われたような気がした。
〈あなた、私の生きてきた今までをどう思うの? 答えてちょうだい〉
隣の席に座る会社社長に、あの女性は誰かと聞いた。すると、伝説の娼婦メリーさんであることを教えてくれた。
あのいでたち、あの問いかけ。とにかく謎だらけだった。彼女を知りたいと思った五大さんは、メリーさんについて聞き込み取材を始める。
彼女が現れるという横浜の馬車道商店街、伊勢佐木町あたりを何度も歩いた。「没落した華族の出身」「実は豪邸に住んでいるらしい」……といった噂の類いも聞いた。
あの特殊なメイクの秘密もわかった。メリーさんが利用する化粧品店が見つかった。羽振りのいいころはマックスファクターを買っていたが、年を重ね、収入が減ると、500円の舞台用化粧品を買わざるを得なくなったのだ。
横浜の関内、伊勢佐木町周辺は戦後米軍に接収され、進駐軍の兵舎や飛行場があった。近くにはメリーさんたちが立っていた『根岸家』という店もあった。
「メリーさんの取材をしながら街を歩いていると、店名を英語で書いた看板が見えたんです。すると、ふと米兵を相手にしているメリーさんの姿や当時の街並みが立体的に見えてきた。あたかも自分がその時代に生きたように」
そこで初めて舞台にしようと思った。脚本はNHK大河ドラマや朝ドラなどの実績があり、戦争を体験した杉山義法さんに依頼した。
「杉山先生は、メリーさんを描くのではなく、メリーさんの背後にいる、戦中・戦後を生き抜いた何十万人の女性を“ローザ”という人物を通して描きたいとおっしゃいました。日本の戦後史を重ね合わせるんだと」
“ローザ”とは、五大さんが名づけた架空の女性の名前。横浜市花のローズをイメージしたのだ。
舞台化が決まってから、親しい人を通じてメリーさんに会う機会をつくってもらった。了承を得たかったのだ。夜、彼女が寝る場所だという、バーが複数入るビルに行くと、真っ白なワンピース姿のメリーさんがいた。
「五大さんが、あなたのことをお芝居にしたいそうよ」
と紹介してもらうと、
「ああ、そう」
と言って手を差し伸べた。
「すっごく小さくて冷たい手でした。でもその冷たさが熱いほどの温もりとなって私の身体を駆けめぐったのです」
'96年、関内ホールで初めて『横浜ローザ』の公演が開かれた。「赤い靴の娼婦の伝説」というサブタイトルの“娼婦”の2文字を理由に会場決定は難航。だが、支援者の助けで使えることになった。
芝居は好評で再演が繰り返されることになるが、“戦争を知らない自分が演じていいのか”という疑問は消えなかった。
その後、疑問が氷解した瞬間があった。同じ時期にメリーさんとともに街娼をしていた女性と話したときである。公演に来てくれたのだ。
「ありがとう」
そうねぎらいの言葉をかけてくれた70代の彼女に、五大さんは自分がローザを演じていいかを尋ねた。すると……、
「ええ、誰かがあの時代のことを伝えないと。頑張って遺さないといけないと思います。やってください。メリーちゃんも喜ぶと思いますよ」
そしてこうも言った。「私ら男も女も青春をちょん切られたんだ」
“青春をちょん切られた”という思いは、青春時代に戦争を経験した世代ならば誰もが抱いているだろう。『横浜ローザ』はそうした人たちの思いを代弁していた。