結婚に離婚も《落ち目》の苛評を一蹴

 結婚、そして離婚も経験した。ボートにはたどり着けなかった。一方で歌手麻倉未稀は走り続けた。初主演した『麗しのサブリナ三姉妹物語』('95~'98年)をはじめ、『くるみ割り人形』('01、'02年)、『アニー』('09年)等々、ミュージカル女優としても活躍し、《落ち目》の苛評を一蹴した。

 それでもまだ、本音は霧の中だった。先輩シンガーの庄野さんは言う。

私、未稀さんの言動を見ていて、すごく勉強になったんですよ。共演者やスタッフへのあいさつもきちんとするし、お仕事が終わればお礼状を書いたりするし。ただね、それだけ気遣いができるから、筋の通らないことは見過ごせないような厳しさもあった。自分が生きている世界のしきたりや、見えないルールを全部守ろうとしてきたから、そのころの未稀さんの人生には自分というものを出す“隙間”がなかったんじゃないかな

 庄野さんは40代で事故による顔面陥没骨折の重傷を負い、子宮筋腫にも罹患した。病院のベッドで「人の命には限りがある」と思い、「いままでにやっていないこと」をノートに書き出し、健康を取り戻してから大学進学や留学、音楽を通じた国際支援活動、さらにはマラソンなど、夢を一つひとつ実現してきた。

「未稀さんと私、共通点がいっぱいあるんですよ。大阪出身、B型、動物占いが黒ヒョウ、私も都会派美人シンガーと呼ばれたことがあったし、バツイチ同士だし(笑)」

 命と向き合い、庄野さんは自分の夢に向かって歩き出した。麻倉さんもまた、乳がんの経験から“本音”にたどり着き、自分が心からやりたいと思える道へと歩み始めた。

苦難を乗り越えて見つけた自分らしい“自分”

入院中に声が出るか心配しながら、恐る恐る歌ったことも
入院中に声が出るか心配しながら、恐る恐る歌ったことも
【写真】歌手への道が開けた“モデル”時代の麻倉未稀が綺麗すぎる

 手術で歌えなくなる可能性もあった。通常の麻酔のかけ方では喉が傷つくこともあるからだが、麻倉さんの手術は主治医と麻酔医の協力で声帯に極力ダメージを残さない術式が施された。

「3日で歌えるようになる」

 主治医の言葉に励まされ、麻倉さんは3日目から少しずつベッドの上で声を出し始めた。富田さんは言う。

「声が出るかな、痛くないかなって思いながら未稀さんは病室で『アメイジング・グレイス』を歌っていたそうです」

 賛美歌でもある『アメイジング・グレイス』の邦題は『我をも救いし』。願いと祈りを込めた麻倉さんの小さな歌声は、廊下を歩く看護師の耳にも届いたという。歌いながら、麻倉さんは3週間後の庄野さんとのライブを思った。

「そのライブはがん告知の前から決まっていたんです。だから真代さんにわがままを言って、その日を復帰のステージにさせてもらったんです」

 復帰後の麻倉さんを、たくさんの仲間たちが支えた。ステージに立つたびに、庄野さんや澤田知可子さん、石井明美さんが駆けつけた。

「頼まれもしないのに、押しかけコーラス隊をやりましたよ。その後で未稀さんとの共通点がまた1つ、増えちゃいましたけどね」(庄野さん)

 '21年、庄野さんは血液のがんである悪性リンパ腫に罹患した。

「未稀さんから特別な励ましはありませんでした。彼女も経験者だからわかっているんですよ、自分にできることは、自分も頑張っている姿を見せることなんだって」(庄野さん)

 麻倉さんは普段どおりの態度で庄野さんに声をかけた。その裏で、庄野さんを支える人たちには親身で適切なアドバイスを送っていた。庄野さんの所属事務所の代表である澤井康明さんは言う。

「まわりの人たちが元気を出さなきゃいけない、しっかり、でも無理せず、支えてくださいと、麻倉さんは僕やスタッフに何度も励ましの声をかけてくれました」