天才少女歌手としてトリを務める
花江さんは、昭和11(1936)年生まれ。父は旅まわりの一座を率いる興行師、母は歌や芝居を披露していた、一座の看板芸人だった。
「当時は、劇場の楽屋で座員みんなで寝泊まりをして、旅まわりをしていたので。うちは姉妹全員、巡業先の劇場の楽屋で生まれているんです。歌江姉ちゃんは北海道の歌志内、照枝姉ちゃんは小樽、私は秋田の劇場の中で生まれたと聞いてます」
定住の家はなく、一家で巡業先に行き、劇場で興行しながら楽屋で生活。そこで生まれた子どもたちも、一緒に次の劇場へ移動し興行する、という暮らしがずっと続く。
姉ふたりがそうだったように、花江さんも3歳のときにはもう舞台に立っていた。
「初舞台がどこだったかも覚えてない。もう80年以上も昔のことやもんね。たぶんそのころの流行歌を歌ってたんやと思うけど。一座にはバンドの人もいたんでね。元は交響楽団にいたバイオリン担当の人が、譜面の読み方や、ギターの弾き方を教えてくれたんです。私、小さいころから、音楽が好きやったんで、楽屋にあるギターも勝手に弾いて練習してたし。舞台に立って歌うのは楽しかった」
2つ下に四女が生まれ、状況が変わった。
「妹は足が不自由でね。世話をしないといけない状態だったし。お母さんはそれから病気がちになってしまって。私がもの心ついたとき、母はもう舞台に立っていなかったんです」
少女漫才として評判を呼ぶようになっていた姉ふたりが、神戸の興行師からスカウトを受け、関西を中心に活動をするようになった。それを機に一家は旅まわりをやめ、大阪で定住。しかし、少女歌手として稼ぎ手でもあった花江さんはひとり別の一座に預けられ、家族と離れて巡業に出るようになった。まだ5歳のときである。
「“天才少女歌手”……なんて自分で言うのもなんですが(笑)、一座の座長として、トリ(出番の最後)で歌ってたんです。“鼻低いけど、声高い”ってキャッチフレーズで、どんな流行歌でも歌ってました。親はそばにいないし、まわりは大人ばっかりで、いじめられたこともありましたけど。母の妹である叔母がずっと一緒に巡業についてくれてましてね。自分の子どものように可愛がってくれたんで、寂しい思いはそんなにしてないですね」
児童福祉法もない時代。親元を離れ学校にも行かず、舞台に立つ毎日を送っていた。
「舞台に立つのは好きやったから、楽しかったけど。学校は行きたかった。勉強して女性弁護士になるのが夢やったの。それで、7つになったら大阪の学校に行こうと思っていたのに、お父さんにまた“旅公演に行きなさい”って言われて。
親に口答えできる時代と違うからね。私も稼がなあかんと思ったし。逆らわずに、“はい”って、また巡業に行ったんです。でも、あのときの経験があるから今の私があるんやと思うの」
学校に行けないかわりに、勉強を教えてくれる家庭教師をつけてくれた。
「ところが、その人が、一座についてまわってたら漫才が好きになりはって。全然勉強教えてくれんと、漫才を教えてくれて、一緒に漫才しようってなった。だから、私の初めての漫才は、家庭教師が相手やったんです。歌うし、漫才もするし、当時は踊ってもいましたね」
太平洋戦争に突入してからも、巡業に出ていた。
「私は大阪が空襲を受けたときは、巡業に出てたし、巡業先でも爆撃にあったことはないんです。姉たちは、大阪の劇場が焼けて、亡くなった人を見ながら家に帰ったって言ってましたね」