「一緒に舞台出るのがイヤ」と苦情を言われるほど
息の合った合奏やしゃべくりで人気だったかしまし娘だが、舞台裏では仲が悪いという噂もあった。
「普段は仲いいのよ。近所に住んで行き来もするし、いざとなれば助け合いもする。でも、漫才のことになったら、ケンカになるのよ。ウケへんかったときは、特にイライラするから。
出番が終わって舞台袖に入ったとたんに、“あんたが間をはずしたからや”と言い合ってモメてしまう。お互い、自分のことは棚にあげてね。“かしまし娘はケンカばっかりしてうるさいから、一緒に舞台出るのがイヤや”と先輩から苦情を言われるほどでした」
舞台上で、きょうだいゲンカのようなやりとりを、ネタとしてすることはよくあった。
「歌江姉ちゃんのことを、ボロカスに言って笑いを取るというのをよくやってたんです。もちろん漫才の中でのシャレなんやけど。歌江姉ちゃんが本気で怒って、舞台を途中で降りて、楽屋に帰ってしまったこともあるんですよ。
照枝姉ちゃんと2人取り残されたまま。どうしたかって? 2人でそのまま漫才を最後までやり通しました。根性でしょ。そんなきょうだいゲンカみたいなことを漫才でやるのも、お客さんには面白かったみたいやけどね。まぁ、舞台上でのやりとりやから、終わってからも、お互いに謝ることはなかったわね」
昭和50年代に入ると、それぞれソロで仕事をすることが増え、徐々に3人そろっての漫才をする機会は減らしていった。お正月興行など10日間ほどの劇場公演に年4回出演するだけ。
「3人そろって漫才するのが久しぶりやから、息が合わないのよ。何日かやってるうちに、ようやくええ漫才になってきたなぁと思ったころには、出番が終わり。次に一緒に漫才するのは3か月後とかでしたから。それでうまくはいかんわね」
さらに漫才をするのがつらくなってきたという。
「だんだん漫才がマンネリ化しているというのは、肌でわかりました。同じことを言ってもウケない。ウケないと哀しくなる。そしてケンカになる。かしまし娘は看板出番をもらってるのに。“あかん。ウチらの時代やない”って、感じるようになってしまったんです」
昭和50年代後半には、漫才ブームがやってくるのだが、その直前の演芸界は活気を失っている時期でもあった。そんな中、かしまし娘結成25周年のとき、大きな決断をする。
「仲のいい姉妹やのに、漫才をするたびにケンカになる。だから“漫才やめへん?”と、私が照枝姉ちゃんに相談したんです。そしたら、『わかった。やめよう』ってすぐ決断してくれました。でも、歌江姉ちゃんは、泣いてイヤがってましたね。
ウチらが直接伝えたら、絶対反対すると思ったから、所属の会社と相談して、そちらから言うてもらったんです。それで、上の姉はずっと、会社から“やめ!”って言われたと思ってたみたいで、私らからやめたいって言い出したことは、長らく内緒でした」
昭和56(1981)年、3人での活動を休止し、かしまし娘の大看板を下ろした。歌江さんは執筆や講演を中心に仕事をするようになり、照枝さんは松竹新喜劇に入って芝居の道に。花江さんは1人で、番組の司会をしたり、ドラマや舞台に出たりするようになった。
「漫才をやめたら、ウケへんと悩むことはない。ケンカもせんですむ。1人で活動するようになって、正直、楽になった気がします。ウチは夫の稼ぎがあったので、思い切って漫才をやめられたのかもしれません」