母親を亡くして心を閉ざした妹
後日、千波さんと父親の武徳さん(仮名=当時70代)の2人に会うことができた。仕事はしないまでも、なんとか家族を通して社会と接点を持っていた祐子さんの状況が一変したのは、16年ほど前に母親が亡くなってからだという。
「祐子はほとんど母親としか話さなかったんです。私は昔気質で、働かざる者食うべからずという考え方。千波と私は似てるんですよ。だけど祐子は少し違っていた。自分の人生を考えようとしない、人に会わない、すぐに逃げる。だから私は妻亡き後、怒ってばかりいました。でも祐子にとって母親がすべてだったんでしょう。私と千波を拒絶するようになった。私はどう付き合ったらいいかわからない」(武徳さん、以下同)
妻は良家のお嬢さんだった。ただ、身体が弱かった。
「千波を産んだときも1か月も前から入院しました。やはり身体は丈夫じゃなかった。自分は早く死ぬと思いながら子育てをしていたみたいですね。祐子のときはさらに早くから入院していた。産むと言い張ってね」
妻は50代後半で大病を患い、回復はしたが体調はずっといまひとつで、62歳で亡くなった。病気が悪化してから亡くなるまでは数か月しかなかった。祐子さんはその間、献身的に看病していたという。次第に母は5分に1回くらいの頻度で用を言いつけるようになったが、祐子さんはすべて聞き入れていた。
家族で交代しながら看病したため、千波さんは申し送り用のノートを作った。祐子さんは、母の容体や状況を細かく記していた。
「父は仕事があるし、私も仕事と家庭がある。みんなお母さんに対して一生懸命だったけど、中でも妹はつきっきりでしたね。母が亡くなったときは泣いて泣いて、何もできなくなっていました。
葬儀の打ち合わせにはまったく入ってこなかった。今思えば、母と妹は共依存的な関係だったのかもしれません。私と父が似ていて、妹と母が似ている。私と父はぶつかることも多かったけど、言いたいことを言い合う。でも妹と母は、お互いがいないと生きていけないような関係だったのかもしれません」(千波さん)
そして父と祐子さん、2人だけの生活が始まった。一軒家の自宅は、1階がリビングや父の部屋、2階に姉妹の部屋がある。武徳さんは朝起きると、掃除や片づけをしてから店に出かけていく。最初のうちは、父と祐子さんは、夜になると一緒に食卓を囲んでいた。
「祐子は掃除も片づけも料理もしないんです。1週間くらい食器を洗わずにシンクに置いていても平気なタイプ。私はこまめにやっていました。自分でやるしかないから。そうしているうちに、彼女とは好みも違うからと思って帰りに何か買うことが多くなった。祐子も私がいない間に買い物に行って、私がまだ店にいる間に夕飯もすませるようになった。
私がいるときは階下にも下りてこない。たまにリビングにいることもあるんですが、私が玄関を開けるとあわてて自分の部屋に駆け上がっていく。そんなふうに暮らして16年もたってしまったんです」(武徳さん)