娘の歌手活動は順調ながら長引いた離婚までの裁判
一方、夫との関係は冷え込んでいた。一時は埋まったかに思えた夫婦の溝も、このころになると限界を迎えるようになっていた。29歳のとき、ひとつの決断を下す。
「私のほうから『別れましょう』と夫に切り出しました。何かきっかけがあったということではなく、もうこれでやり尽くした、という気持ちが私の中にありました。けれど夫にとっては青天の霹靂だったらしく、まったく相手にしてくれません。話し合いにもならず、荷物をまとめて出ていきました。クリスタルも一緒です。
『どちらと一緒に住みたい?』と出ていく前に聞いたら、娘は「ママ』と言ってくれた。でも娘は当時小学校1年生で、きっと複雑な気持ちだったと思います。
『お父さんと離れるのはイヤ』と言って泣いていました。『これはあなたのせいじゃない。申し訳ないけれど、私と彼のことだから』と娘に伝えています。
学校に歩いて通えるよう、根岸の住宅地近くにマンションを借りました。娘はフェンスの外から根岸の小学校に通い、中学校と高校はそこからスクールバスで横須賀基地内にあるアメリカンスクールに通っています」
別居後、裁判が始まった。夫との争いは泥沼化し、離婚成立まで3年間にわたり裁判が続くことになる。
「私も夫も日本では外国籍の外国人です。日本で外国人同士が争う場合、協議離婚はできず、家庭裁判所に行かなくてはなりません。家庭裁判所で夫が「イエス」と言ってくれればすんなり離婚成立となったけれど、そこで彼が闘ってきた。夫は、
『子どもの親権をよこせ』と言います。アメリカ人の国民的気質なのかもしれませんが民事裁判となるとかなり強気で、闘いも激しさを増していきます。結局、家庭裁判所では収まらず、高等裁判所に進むことになりました。
住み慣れた根岸を離れ、娘と2人暮らしを始め、生活も一変しました。けれど何より私を変えたのは、新しい男性の存在でした。家を出てすぐ、私に彼氏ができた。私にとってまったく初めてのタイプでした。
“男が変われば世界が変わる”。しかしそれはいばらの道の始まりでもありました」(次回に続く)
<取材・文/小野寺悦子>