入院中に書いた日記から著書を

「病名としては、抑うつ症、自閉症スペクトラム、適応障害といろいろついてはいますね。うまく人と関われないし、ストレスがかかったり身体が疲れていたりすると被害者意識が強くなりますしね。ものごとをマイナスに考えてしまうんです。例えば資格を取るための勉強をしていたこともあったんだけど、半年以上継続できない。途中でネガティブなことばかり考えてしまうんですよ。

 もし資格試験に受かったとしても、それを活かすためには仕事場に通わなければいけないわけでしょう。どこかでつぶれるなとわかってしまう。先の見通しを建設的に考えることができないんです」

 保護入院中の1か月を踏まえて、『動くと、死にます。』の著書ができたわけだが、そのベースとなった日記を見せてもらった。細かい文字でびっしりとその日のことや、自身の考えが綴られている。

 自らの心だけではなく、一般的な人間の心の動きについても、少しずつ、だがどこまでも掘り下げていくのが彼の習い性ともなっているようだ。それが彼の心を癒すのか、さらにストレスを積み上げていくことになるのかは私には判断できないのだが、彼はそうせざるを得ないのだろう。

 1か月で退院してからはデイケアに通ったり訪問看護を受けたりしていた。2年ほどは時々死ぬまでの手順を念入りにシミュレーションしていることがあり、自分でも「ヤバかった」と話す。

あらゆる共同体にも居心地の悪さを感じ孤立してしまう

 現在、彼は2週間に1度、訪問看護を受けている。大学受験の勉強だけは「半年以上続いている」という。日々、決めた勉強や読書をして、あとは2か月に1度、美術館巡りをしている。

「今は母とも良好な関係を築いています。母親としてではなく、母も僕と同じような病を抱えている人として接していると気が楽なんですよね。今も母は年に1回くらいキレていますが、客観的に見てなだめるようにしています」

 父とは険悪なわけではないが、あまり会話はない。母も仕事で忙しいので、基本的には食事も別だが、週に1回は一緒にスーパーで買い物をする。休日は母が料理を作ってくれることもあるという。

「僕が使ったお金は、毎月、レシートをつけて母に提出しています。使うといっても病院の費用や食材が主で、贅沢品は買わないし、そんなにお金を使うことはありません」

 見た目、彼のアトピーが特にひどいとは思えないが、今のところは薬を服用して落ち着いているそうだ。生活習慣病も気にはなっているのだが、運動をして汗をかくとアトピーがひどくなるし、痛し痒しだと彼は笑顔を見せた。

「僕は、たぶん他のひきこもりの方とは違いますよね」

 ひと通り話すと、彼は少し気楽になったのか世間話のような口調になった。

「いじめなど何か決定的なことがあってひきこもったわけではなくて、ひきこもる前から社会ではやっていけないと思っていたんですよ。学校や当事者会などの、あらゆる“共同体”にも居心地の悪さを感じ孤立してしまう。そういった、世界に確実にある“動けない存在”にどうしたら尊厳を与えられるかを考えていたんです。それがこの本なんです」

 彼は著書をあちこちに寄贈した。地元の市議会議員に送って、そこからの紹介で地元の図書館に置いてもらった。読んでくれた学者が大学の論文に引用したり、彼の主治医が「大人の発達障害」の学会で取り上げてくれてもいる。さらにその輪を広げていきたいと彼は言う。本を書いたことで、「少しだけ自信がついたかもしれない」と控えめに語る彼だが、名前を売りたいわけでもなく、自分の存在を知らしめたいわけでもない。

「ただ、ひきこもりという動けなさを抱えた存在がいること、そこに社会や人間が尊厳を与えることができたならば、障害のある人や高齢者、さらにはルッキズムで苦しむ人など、他の“動けない人”にとっても福音になるんじゃないかという思いはありますね」

 その後、彼は私のこれまでに興味を示してくれた。その優しいまなざしにつられて、あまり人に言ったことのない育った家庭での深い確執なども、いつしか話してしまった。彼は黙ってただ聞き、深くうなずいてくれる。私の言葉を自分の心でしっかり受け止めてくれるのがわかり、彼のノンバーバルな意志の伝え方の深さに驚かされた。まだ33歳。今まで独学で学んできたこと、考えてきたことはたくさんあるはずだ。この本をきっかけとして彼自身が世の中に発信できることはいくらでもあるのではないか。そして繊細で弱いと自らを称する彼は、実は柳に雪折れなしという強靱さを持っているのではないか。去っていく後ろ姿を見送りながらそんなふうに感じていた。

亀山早苗(かめやま・さなえ)●ノンフィクションライター。1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆