187センチの長身から投げ下ろす豪球左腕だった。秋田経法大付属高3年の1994年、世界選手権の日本代表に高校生として初選出。96年アトランタ五輪でも代表入りし銀メダルを獲得した。社会人野球から同年のドラフトで逆指名した巨人に入団。しかし、プロでは全く通用しなかった。
元巨人担当記者はこう振り返る。
「精神面が弱く典型的な“ガラスのエース”だった。アトランタ五輪でもキューバ打線に打ち込まれメダル獲得に貢献できなかった。2軍や紅白戦ではうなりをあげる豪速球がズバズバ決まるが、1軍のマウンドに上がるとストライクが入らなくなる。連続四球を繰り返し、当時の長嶋茂雄監督も“小野はダメだ。気迫が感じられない”などとがっかりしていた」
近鉄にトレードされ、2003年に戦力外通告。ミネソタツインズとマイナー契約を結ぶもメジャーには上がれなかった。
引退後はさまざまな仕事に就いたという。
キャバクラの黒服に工場の作業員…さまざまな職種を転々としたが
「魚市場の配送や床清掃、工場の作業員、キャバクラの黒服、スポーツ選手のセカンドキャリア支援などさまざまな職種にチャレンジしたようだが、腰が定まらなかった。昨年の事件のとき聞いた話では、コロナ渦で給料が減り、貰い物の酒やゴルフ用品をネットのフリーマーケットに出品して小遣いを稼ぐようになり、手持ちがなくなったため盗品を売るようになったらしい。いかに生活が苦しくとも、ほかに手立てがあったのではないか」(前出・元巨人担当記者)
プロ野球選手も辞めてしまえばただの人。横浜市港北区の家賃約9万円のアパートでひとり暮らし。離婚歴があり、愛車もありふれた国産大衆車だった。自宅周辺では「デカいおじさん」と呼ばれ、元巨人の投手と知る人は少なかった。