目次
Page 1
ー 順風満帆ではなかった
Page 2
ー 求められるものと方向性の違いで苦しんだ
Page 3
ー しつけの厳しい祖父母の養女として育つ ー 100曲の作詞・作曲を言い渡されて……
Page 4
ー 結婚・出産・離婚を経てひとり暮らしを満喫 ー 東日本大震災をきっかけにピアニストとしても活動
Page 5
ー 岡本真夜の友人が感動した逸話
Page 6
ー メニエール病で引退を考えたことも
Page 7
ー アイドルグループをプロデュース

「涙の数だけ強くなれるよ」。平成を代表する応援ソングのひとつ『TOMORROW』で1995年にデビューした、シンガー・ソングライターの岡本真夜。この曲は田中美佐子の主演ドラマ『セカンド・チャンス』(TBS系)の主題歌となり、第68回選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも選ばれた。セールスは200万枚という大ヒットを記録し、同年の『第46回NHK紅白歌合戦』にも出場。岡本は一躍スターダムへとのし上がった。

 3rdシングルのバラードナンバー『Alone』もロングセラーとなり、シンガー・ソングライターとして確固たる地位を確立する。

順風満帆ではなかった

「ピアノは私にとって空気のような存在」と語る岡本真夜
「ピアノは私にとって空気のような存在」と語る岡本真夜

 岩崎宏美、沢田知可子、広末涼子、平原綾香などへの楽曲提供も手がけ、2016年からはピアニストとしても活動。さらに2022年からアイドルグループのプロデュースも開始した。

 21歳でデビューしてから28年、こうして振り返ると順風満帆な音楽人生のように思える。しかし、岡本は長年、事務所とのいざこざや人間関係に悩まされてきて、「この年になって、やっと音楽だけに向き合える落ち着いた環境を手に入れました」と笑う。

 そもそも始まりからして波乱含みだった。デビュー曲が『TOMORROW』に決まったことや大ヒットしたことは、岡本にとって予想外の出来事だったのだ。

「私はもともとバラードを歌いたくて、シンガー・ソングライターを目指しました。『TOMORROW』もミディアムバラードとして制作していたんです。でもドラマのプロデューサーから『アップテンポにしたものを主題歌として使いたい』とリクエストがあり、アレンジをガラリと変えて、完成したのが『TOMORROW』でした

 デビュー曲は5曲候補があり、岡本の中ではほかにイチオシの曲があったという。だから本人もスタッフも「『TOMORROW』だと売れないだろう」と思っていた。

 しかし、思いもよらない大ヒットとなり、岡本真夜の名前が広く知られるようになる。大ヒットの裏側で、自分のイメージとは異なるアップテンポの曲調で、もてはやされることに岡本は違和感をぬぐえなかった。

「当時は自分の曲として受け入れられないというか。私らしい曲ではないのに、大ヒットして、代表曲としてとらえられてしまうことに何年も葛藤がありました。でも今はこの曲がなければ今がなかったと思っています」

応援ソング的な曲から、ラブソングの名手としても知られていく
応援ソング的な曲から、ラブソングの名手としても知られていく

 さらにデビュー当初は「顔出しNG」とし、テレビ番組に登場することはなかった。『TOMORROW』のCDのジャケット写真も顔がわからないようになっている。雑誌や新聞の取材は受けていたが、写真は撮らせず、事務所が用意したアーティスト写真を使ってもらっていた。

「楽曲だけで勝負したいと思っていて、カメラも苦手だったので、メディアには出ないという約束でデビューさせてもらいました。でも、『TOMORROW』が大ヒットしたことで『生で歌っているのを聴きたい』という声が大きくなり、周りの大人たちの事情に巻き込まれて(笑)、仕方なく紅白歌合戦で初めて顔出しをしたんです。ライブをするのは好きなのですが、今もテレビに出るのは苦手ですね」

 大黒摩季やZARDなど、当時はマーケティングの一環として、初めは顔を出さずにCDを売り出す方法もあったが、岡本の場合は本人の希望だったのだ。