一番やりにくい相手とコンビを結成!?
演出家から諭されたときの言葉を、萩本は今も忘れられないという。
─この世界で仕事をしていくのに大事なのは、知らない人がファンになってくれることだ。おまえみたいにダメな下手クソでも、近くで見ていた池さんはファンになって応援してくれたんだよ。ひょっとすると欽坊は有名になるかもしれない。だから自分からやめるなよ─。
「そう言われたときは……、ホント、泣けた。あのときクビにならなかったのは、自分の力なんかじゃなくて、いい人たちと出会えた“運”のおかげ。夢が叶うには物語があってね。自分一人で作る物語ってのはセコいの。成功の物語は、人が絡んだときにデカくなるんだよ」
東洋劇場でコメディアンの修業を積んだ萩本は、'63年に22歳で『浅草新喜劇』を設立した。22歳で劇団を旗揚げしたエノケンの人生に触発されてのことだ。約20人の団員たちとコントを演じているうちに、テレビ局から声がかかる。
「いよいよ有名になっちゃうのかなとドキドキしながらテレビのエキストラの仕事とかやってたんだけど、怒られてばっかりで、3年やっても有名になりそうもない。歌番組の公開放送で生CMの仕事をもらったときも、19回トチって即クビになるし」
'65年。TBSのドラマ『楡家の人びと』の仕事が入る。エキストラではなく役者としての起用だった。演出家はヒットメーカーの大山勝美さん。千載一遇のチャンス。ところが、3日間かけて収録した自分のシーンは放送ですべてカットされていた。
「腹は立たなかった。納得だよ、今の自分にテレビは無理だなって。後年、床屋さんで大山さんとバッタリ会ったとき、“あのときは申し訳なかった、ずいぶん恨んだだろ?”って謝られたの。だから僕も自分の気持ちを正直に伝えた。“とんでもありません、あれがあったから先に進めたんです。大山さんは僕にとって恩人です”ってね」
テレビの仕事に挫折した萩本は、浅草に戻った。原点回帰。ただし、チャップリンやエノケンのようなコメディアンになるという大きな“夢”は描かなかった。
「夢じゃなくてね、浅草で一番になろうという目標をつくったの。だけど自分の才能ではそこにも届かないだろうってんで、目標を目的に下げて、面白いコントを作れればいいやと思ったら気持ちがラクになった」
'66年。気負いなく、自分らしく「笑い」を追求する萩本に幸運が訪れる。きっかけは、浅草の先輩芸人である坂上二郎さんからの電話。マージャンに誘われ、牌をつまみながら自分が考えたネタを話しているうちに、二郎さんからコンビで演じる話を持ちかけられた。
「二郎さんとは東洋劇場にいたころにフランス座の舞台で一緒になったことがあって、一番やりにくい相手だった。だから“やろうよ”と言われても、絶対に組みたくなかったんだけど、“イヤだ”って言えなくてね。男女でいえば、いきなり結婚じゃなくて、とりあえず同棲って感じで浅草松竹演芸場に2人で出してもらったら、これがウケちゃった」
二郎さんの「次は?」という言葉に押されて2本目のコントをやると、またウケた。ウケるたびに「次は?」と聞く二郎さんに、萩本は書きためたコントを引っ張り出す。3本目もまたまたウケた。
同棲中のコンビに正式な名前はない。「名なしの権兵衛じゃ困る」と、劇場の支配人が王貞治選手のホームラン記録(55号)にあやかり勝手にコンビ名をつけた。こうして「コント55号」は誕生した。
「コント55号は二郎さんが運をくれたんです。“アンタと組むのはイヤだ”って、本音を言わなかった自分はエライよね(笑)。言葉って大事。イヤだとか、ツラいとか、そう感じたところに運はある。否定的な言葉ばかり使っていると、運は逃げていくんだよ」
コント55号から視聴率100%男に!
舞台狭しと動き回るコント55号の面白さをテレビ業界も放ってはおかなかった。'68年にはレギュラー番組も獲得。そこには萩本に新たな運をもたらす人との出会いがあった。
「フジテレビの『お昼のゴールデンショー』のプロデューサーが常田久仁子さんで、“キレイにやって”と言われたときはビックリした。だって、舞台の笑いは動きやすいダブダブの服を着て、髪も振り乱してやってたのに、“笑ってもらえなくてもいいからキレイに”って……。コメディアンとしての自分が女性の目にどう映るかっていうことを初めて意識させられたの。“欽ちゃん”というキャラクターは、常田さんが作ってくれたようなものだよ」
身体を張った泥くさい笑いをキレイに演じる。下ネタは一切やらない。“欽ちゃん”の愛称とともに、萩本は女性たちからも好かれるコメディアンになった。
一方で、テングにもなった。
「オレは有名人だからって、革のコート着て、ブーツ履いて、サングラスかけて、ロレックスの金時計をはめて、いい気になってたよなぁ」
テングの鼻は簡単にへし折られる。「有名人になって何がしたいの?」と問うたのは放送作家だった青島幸男さん。萩本は、「芝生の庭がある赤レンガの豪邸を建てたい」と得意顔で答えた。
「そしたらさ、青島さんは“つまんないねぇ”って言うわけ。“オレなら、エジプトのピラミッドよりも高い墓を作る。1センチでも高ければ世界の歴史の教科書が変わっちゃうんだぜ”って言われたときは、金のロレックスで喜んでいた自分がみっともなく思えた。だから僕、家は建ててないんだよ。後に買った神奈川県の二宮町の家は築25年の中古だもん(笑)」