同じ歌手として娘は華々しく私は落ち目
現状を打破するには、周囲のサポートは不可欠だった。親に打診を決意する。
「横浜・山手のレストラン『ドルフィン』で母と会いました。そこでひと言『家に帰らせてください』と頭を下げた。精神的にもうギリギリの状態で、最後の頼みの綱でした。けれど母はすかさず『それはダメよ』と、私の申し出を一蹴した。泣き崩れました。
17歳で家出をして、以来私という娘は生まれていないことになっていたようです。
父が韓国の国立大学に勤め始めたころだったので余計に。いないはずの娘が、まして黒人との子どもを連れて出戻ってこられても困るということでしょう。
希望は打ち砕かれ、お酒に走り、ボロボロの毎日でした。このままでは娘を抱えて生きていけない、死にたいと本気で考えました。私を救ってくれたのは、ひとりの友人でした。
ある日、酔いの抜けない私を銭湯に連れていき、湯船につからせ、タバコを吸いながらじっと待っていてくれた。風呂上がりの私に『これ食べなよ』とおにぎりを手渡してくれた。そのとき“私は一体何をしているのだろう?”と思った。このままではダメだ、強くならなければ、と思った瞬間でした」
健全な精神は健全な肉体に宿る。まずは身体を鍛え、精神を鍛えようと考えた。
「ママ友に相談すると、『じゃあ一緒に極真空手に行こう』と誘ってくれた。
空手ならうってつけだということで、道場通いを始めています。運動などそれまでしたことがなく、もちろん最初はヘナチョコでした。
けれど毎日朝練に参加し、みんなと一緒に稽古に励むと、我慢も強いられ、精神的にも強くなっていく。道場には計2年間通い、最終的に青帯までいきました。前向きになるまで1年もかからなかったと思います。一番底を見たら上がるしかない。
気持ちがどんどん変わっていき、もうこれ以上彼と一緒にいたらダメだ、彼とはもう別れよう、と考えるようになりました」(次回に続く)
<取材・文/小野寺悦子>