のど自慢で“常勝”の天童が味わった挫折

小学生のころ“のど自慢荒らし”として活躍していた天童よしみ
小学生のころ“のど自慢荒らし”として活躍していた天童よしみ
【写真】小学生のころ“のど自慢荒らし”として活躍していた天童よしみ

 小学生のころは、宿題を終えると、歌の練習が始まる毎日。そのかいあって“のど自慢荒らし”の異名をとった。6歳で出場した「素人名人会」では、大好きな歌のひとつ、中尾ミエの『可愛いベイビー』で名人賞を獲得。のど自慢会場でよく顔を合わせたのは、のちに漫才師になる上沼恵美子だ。今でこそ圧倒的な存在感を見せる上沼だが、歌では天童の敵ではなかった。11歳のとき、子どものど自慢の最高峰『日清ちびっこのどじまん』でも、上沼を退け天童がグランドチャンピオンに輝いた。

「そのとき、恵美子さんは手を叩いて祝福してくれて、すごくデキた人だなと思っていました。ずっと後になって、“あのとき、悔しくなかったの?”って恵美子さんに聞いたら、“首絞めたくなるぐらい悔しかった”って。“でもね、よしみちゃんには絞める首がなかった”って(笑)」

 しかし天童にも上沼の気持ちがわかる日がくる。『ちびっこのどじまん』の日本一決定戦で敗れたのだ。初めての敗北経験。天童は演歌『北海育ち』、優勝者はポップス『バケーション』。

演歌じゃいけないのかと思い、落ち込みました。歌で勝ち負けを競うのも疲れてきたし、そもそも歌う喜びを感じていなかったように思いますね。喜んでいるのは両親ばかりで。歌うこと自体、楽しくなくなって、父との練習もしなくなりました」

 父親は「歌を忘れたカナリアは」と間近で歌って奮起を促したが、反発しか湧かなかった。当時は、ザ・タイガースのジュリー(沢田研二)に夢中だったのだ。

 数年後のある日─。

「こんな番組やってるで!」

『全日本歌謡選手権』7代目チャンピオンに輝きデビュー。その当時のブロマイド写真
『全日本歌謡選手権』7代目チャンピオンに輝きデビュー。その当時のブロマイド写真

 父親が勉強中の天童にこう呼びかけたのは中学3年生のときだった。テレビで『全日本歌謡選手権』という番組が放送されていた。プロとアマチュアが共に競い、10週連続勝ち抜くとデビューできるという番組。見たら、審査員が「歌なんかやめて米作りに励みなさい」とエラそうにコメントしている。ルポライターの竹中労さんだ。「絶対にイヤ」と言ったが、父親は「これまで歌ってきた曲、10個並べてみろ」という。書き出してみると10曲がそろった。

「10週勝ち抜く気満々の父の顔を見ていたら、どういうわけか、出ようかなという気になったんです」

 順調に勝ち抜いた。するとファンレターが段ボール箱3~4個分も届くではないか。

「うれしくてね。デビュー前でこれ? もしデビューしたらもっとすごいことになる。絶対にプロになりたい、という気持ちが強くなりました」

 天童は見事10週勝ち抜きに成功。そして『風が吹く』という曲でキャニオンレコードからデビューした。「天から授かった童」という意味で芸名は「天童よしみ」。曲の作詞も命名も、例のエラそうに話していた審査員・竹中さんだった。

どん底の天童を救った偶然の出会いとは

吉田よしみ名義でアニメ『いなかっぺ大将』の主題歌のシングルを発売したころ
吉田よしみ名義でアニメ『いなかっぺ大将』の主題歌のシングルを発売したころ

 '72年、母親と上京。キャッチフレーズは「恐るべき天才少女」。デビュー曲はある程度ヒットしたが、2曲目以降が売れなかった。当時、山本リンダの『どうにもとまらない』などポップスが全盛期。「演歌は太刀打ちできなかった」と天童は振り返りつつ、

「自分のせいで親が別居生活になり迷惑をかけている。でも私としてはもう少し頑張ってみたい。引き裂かれる思いでしたね」

 5年後の'77年、いったん大阪に帰郷することにした。しかし歌手はやめたわけではない。温泉施設に行ってレコードを手売りしたり、河内音頭が好評だったので、盆踊り会場で歌ったりしていた。

「祭りに父が来たことがあって、“河内音頭のよしみ”と書かれた法被を身につけていたのですが、よく見ると“演歌の天童”と父が書き足してある。娘は河内音頭だけやないぞというプライドを持っていた。私の気持ちをよくわかってくれているなと思いました」

 天童は当時、歌手をやめようかと落ち込んでいた。LPレコードを作っても、河内音頭が主で演歌は添え物の扱い。その状況に絶望していたのだ。

「“歌をやめる”と母に言いました。でも絶対に後悔するからと引き留められました」

 時間に余裕があったので、料理やお茶、お花を習った。「料理には興味がなくて、料理教室に行くフリをして友達とディスコに行っていました(笑)。でもお花は楽しかったですね。未生御流の先生は私の生けた花を見て、“芯が通ってるわ”と褒めてくださいました」