天童が近くにいると紅白歌合戦を見ない両親
両親は、歌手として思うに任せない娘を気遣った。大みそか、親は紅白歌合戦を見たいのに、天童が近くにいるとほかの番組を見た。しかし本人は気にしたことなどなかった。帰郷する前年の'76年、同期で同じレコード会社に所属する研ナオコが、紅白歌合戦に初出場したときでさえうれし泣きしたのだから。
そのころ、天童は歌謡教室を始めている。社員に歌が下手だとバカにされた父の知り合いの社長が、教えてほしいと頼み込んできたのだ。ワンポイントの指導でグッと上達した社長が、天童の教え方のうまさを口コミで広げ、生徒は200人を数えるまでになった。生徒の励みにしようと、定期的に発表会を開いた。会の最後に天童が行う「模範歌唱」が生徒には好評だった。
「生徒さんの表情を見て、私のオリジナル曲を出したいと。その曲をみんなに歌ってほしいと強く思いましたね」
当時、レコード会社との契約が切れることになっていたが、捨てる神あれば拾う神あり。'85年ごろ、天童の生徒夫婦が大阪キタのスナックでカラオケを歌っていたら「上手やね」と褒める客がいた。
「天童よしみさんに教えてもらっているので」と答えると、「えっ? 彼女の連絡先わかる?」と聞く。テイチクレコードの営業部長だったのだ。その部長には天童にぜひ歌ってほしい曲があった。
それこそが『道頓堀人情』だった。天童は両親と一緒に曲を聴いた。「これや!」。そう言って抱き合って号泣した。
《負けたらあかんで東京に》
つらいことがあってもそれは過去のことだという意味の歌詞もあった。天童たちが当時抱えていた思いを代弁するような曲だった。
だが喜ぶのは早かった。レコードが発売される'85年12月に合わせ、1日10軒の店を回って歌う全国キャンペーンの指令が出たのだ。赤提灯やスナックに飛び込みで歌う。北海道の果てにぽつんと立つ一軒家に住むファンに会いに行き、そのおじいさんのためだけに歌う……。そんなことを来る日も来る日も続けた。
「焼き鳥屋さんの煙の中で歌うのはしょっちゅう。ダンプカーが巻き上げた砂煙が入ってくるような店で歌うこともありました」
一緒に回った母親に言われたことがある。
「お客さんが少なくても、あんたは一生懸命やらなあかんで。どんなときでも手、抜いたらあかん。一生懸命まじめにやってたら誰かが見てる。その人が力をくれたり支えになったりするんやから」
真冬の北海道の焼き鳥店での出来事は一生忘れない。狭い店内には母親の居場所がなく、外で待ってもらった。歌を終えて母の頬を触ったときの冷たさといったらなかった。天童さんは心に誓った。
「こんな仕事はもうさせたくない。暖かい部屋でいられるようにしてあげたい」
キャンペーンが半年を過ぎたころ、テイチクのディレクターに言ったことがある。
「テレビには出られないんでしょうか? 一軒一軒回るよりもテレビに出たほうが……」
怒られた。
「テレビなんて自分で出るもんじゃないの。売れたら向こうから言ってくるものだよ」
二の句が継げず、“のし上がるしかない”と思った。
それから間もなく、有線放送で『道頓堀人情』がかかり始めた。
「店を回っていると、あっちの店からもこっちの店からも『道頓堀人情』が流れてくるんです。“道頓堀人情の花道”ができたみたいで、これがヒットなんやと思いました」
'86年、全日本有線放送大賞上半期特別賞を受賞した。
ただ『道頓堀人情』以降、ヒットが生まれなかった。あるディレクターに言われた。
「天童さんのファンは女性が多いのに男歌が多い。もっと女性の切なさを歌った曲がいいんじゃないですか?」
それを受けて女心を歌ったのが『酔ごころ』('92年)。これがヒットし、翌年も『酒きずな』という女歌をリリースすると、'93年の紅白歌合戦への初出場が決まった。